パート先でたまにお使いを頼まれる。ほんまに単なるお使いで、取引先に書類とか持っていくだけ。でもお店から離れられるのでお使いはうれしい。こんなにお客さんが大嫌いでよく接客業がつとまるなあ。いやぜんぜんつとまってないな。いつも怒られとるな。
で、お使いに行くとちゅうにピアノ教室があるのだ。個人でやっている教室らしくふつうの一戸建てに木枠でできた小ぶりの看板が掲げられている。けれどもそのピアノ教室の前を通るとき、あまりいい気分がしない。ピアノの音が聞こえていたりすると、もっと苛立ちがつのる。
くそったれっ!ピアノなんか弾きやがってよぉ~っ!といきなり悪感情が噴出するのだ。
しかしその1秒後にはいちおう思い出す。そうだった、いま私はピアノを習っているんだ。なので、もう嫉妬しないでもいいんだった。
ずっと長いあいだピアノを弾けるヒトがうらやましかった。そのうらやましいという気もちはいまもまだ成仏していないらしく、ふいにピアノの音を聞いたりすると嫉妬の炎がメラメラ燃え上がる。
去年の4月からピアノのレッスンを再開したのだから、もうそんな思いをしなくてもだいじょうぶなはずなんだが、いやいやそれは「いま現在の私」に生じている出来事である。
問題なのは「子どもの私」なんだよね。13才の冬でピアノをやめないといけなかった「当時の私」が、まだつらい思いをしているらしい。「らしい」というのは、なんだかまだよく当時の感情を思い出せないからだ。
その13才のとき、最後のレッスンに行った日のことはよく覚えている。とても寒い日だった。ピアノの先生のお顔はいまも思い浮かぶ。髪型も覚えている。でも母と先生がどんな会話をしていたのかは思い出せない。先生が私になんと言ってくれたのかもわからない。
ただ、先生のお宅を出て母とふたりで駅に向かうとちゅうのことは思い出せる。母は悄然とした面持ちでほとんどしゃべらなかった。しかし一言だけ「『またいらっしゃい』って言ってくれたね」とポツンとつぶやいていた。
その「またいらっしゃい」ということばを、私はひどくよく覚えているのだ。そして私は、母に対してすいぶん悪いことをしてしまったとそんなふうに感じていた。
けれども当時の自分が、ピアノのことをどう思っていたのかいまでもよくわからない。たぶんやめたくなかったんだと思う。ピアノを好きだったんだろう。自分からやめたいと思ったことは一度もなかった。子どもだから将来どうなるかはわからなかったが、このまま弾いていられるはずだとぼんやり思っていたようだ。
まあだから、その当時の私はきっととても悲しかったんだろうね。好きなことをいきなりブツンとちょん切られてとほうに暮れていたんだろうね。
でも、コレってまだ憶測なんだよね。その「子どもの私」とまだつながることができない。よく言われる「インナーチャイルド」というヤツは、この「傷ついた子どもの自分」のことなんだけど、心理学で定番のインナーチャイルドをまだほったらかしである。
なんかすごくイヤだからほったらかしてるね。つまりピアノの音を聞いただけでイヤだなあと思うわけで、瞬間的にイヤだからいまもまだ見たくなくて「なかったこと」にしている。
ここらへんはけっこう根深くて、じつはウチの中にあるグランドピアノを見てもあんまりいい気分はしないのだ。なかなかすごい。毎日練習するために弾いていて、しかもいい響きだなあとちゃんと感動もするのに、でもあんまり見ていたくない物体なのだ。
せっかくウチに来てくれたグランドピアノだというのにね、すいません、あんた見ていてもまだ好きになれないんだよ。
好きと嫌いは表裏一体だという。大好きがくるっと裏返ると大嫌いになってしまう。いまこんなにゾワゾワするピアノは、どうにかしてくるっと裏返したらたぶん好きに変わってくれるんだと思うけれど、いまはまだダメ。
おまえのこと好きなのか嫌いなのかよくわかんねーよと毒づきながら、でも明日はレッスンだから粛々と練習した。