「エンプティ・チェア」という技法は、心理療法でもあるらしい。だれも座っていない「空のイス」を見て、カウンセラーに「今、目の前にはお母さんが座っています。どんな雰囲気や表情をしていますか?」と尋ねられると、だれもが「無表情ですね」とか「こっちを見ようとしていないですね」とか、ごく当たり前のように話しはじめる。
それはヘンだよね? だれもいないイスを見つめて、それを観察して、「そこに座っているお母さんを、5才の子どもが説明する」ってものすっごくヘンだよね? でも、じっさいに自分がやってみると、母ちゃんが見えるような気がした。ありあり鮮明には見えない。でも、ちゃんと見える。じーっとながめることができる。
「実在しない」とちゃんと理解していても、「見えるように感じて」なんの疑問も持たない。こんなことがすぐに成立してしまうのだから、「いま見ているものが『本当』かどうか?」は結局だれにもわからない。
ふと目にしただけでは「だれも座っていないイス」に見えるのに、「さあ、お母さんが座っていますよ」と言われると、突如「お母さんの姿」をそこに出現させてしまう。「お母さんを見よう」という自分の意志だけで、お母さんを作ることができる。もはや「空のイス」ではなくなってしまう。
まあ、つまりヒトって「見たいモノしか見ていない」ということになるのだ。その「私が出現させたお母さん」にしても「5才の私からそう見えたお母さん」であって、リアルの母とはまったくちがう。それは、その当時の母ともちがうものだ。
さて、私は大塚あやこさんのデモセッションを受けて、しかもみんなの前でほどこしてもらったので、まあそういうときは見ているみんなからもエネルギーを与えてもらって、なんか大きく変わることができる。
気がついたら「大きな川の向こう岸」にポンと移動しており、うしろを振り向いて「どうやって、この川を渡ったんだろう?」と驚いているような感じだった。
そんなに大きな流れを越えることができたから、そのあと受講生さん同士でセッション練習をするとき、「春子さんは、もうやることがないよね」といろんなヒトに言われ、私も「そうだね、軽くお父さんでもやろうかな」と笑っていた。
もともと私は父ちゃんのことが好きだったし、わりと尊敬していた。だが、今年4月にあやさん(大塚あやこさん)の個人セッションを受けて、「家系レベル」でさまざまな確執から距離を取れるようになり、そうすると父のこともあまり思い出さなくなった。
で、セッション練習で私がクライアント役になったとき、私は「じゃあ、お父さんでやります。私のトシは……、13才のときしんどかったら13才にします」とあっさり決めた。しかし、これがのちにタイヘンなことになった。
まず「13才の私のイス」に座ると、即座に体調が悪くなった。動悸がはじまり冷や汗が出てきた。胸が苦しくてカラダが折れ曲がる。カウンセラー役のヒトに尋ねられるまでもなく、私は「これは苦しいですね。こんなにヒドくなるとは思わなかった」と異変をうったえる。
動転するほど苦しかった。ピアノをやめた13才のころ、とてもしんどかった記憶がうっすらあったが、まさかいまここでこんなに激しい動悸が出るとはまったく予想していなかった。うっかり「13才の私」につかまってしまった。「あんた、ずっと見て見ぬフリしてただろ? けど、今日は逃げられないよ」と、13才の私は58才の私に言い放った。
カウンセラー役のヒトがこう言った。「お父さんが座っていますよ。お父さんはどんな様子ですか?」
私は、目の前のイスに座っている父を思い浮かべる。父ちゃんはふつうに腰かけていた。いつものようにぼーっとしている。いつものように無口だった。
カウンセラーに「お父さんに言いたいことを言ってみましょう」とうながされても、なにもことばが出なかった。
だって、あのウチでは「子どもはなにも話していけない」ことになっていたもんね。そう、「話す権利」はなかった。すべてのことを親が決めて、子どもはそれに従うのみだった。だから、13才のときに、母ちゃんから「ピアノはやめる」と言われただけだった。
そう聞かされたとき、当時の私は「え? これからどうすんの?」ってわけがわからなくなった。毎日弾いていたピアノを「やめる」という意味がわからなかった。
ピアノを弾かない生活がどうなるのか、さっぱりわからなかった。やめたあと、どうしたらいいのかがわからなかった。わかっているのは「それに従わなくてはならない」ということだけだった。
カウンセラーに「春子ちゃんはどうしたかったの?」と何度訊かれてもわからなかった。それもそのはずで、当時の私は「自分の意志を持ってはならない」と命じられていたから、「本当はどうしたいのか? 親ではなく『自分』がどうしたいのか?」がわからない状態だった。
「お父さんにどうして欲しかったの? それをお父さんに言ってみましょう」
私はぽつりぽつり父ちゃんに話しはじめた。「父ちゃん、あのときなにも言ってくれなかったよね。母ちゃんが『ピアノやめさす』って言ったとき、なにも言わなかったよね。だいたいひと言もしゃべってくれなかったよね。助けてもくれなかったよね。私はしんどかったんだよ。それ、わかって欲しかったんだよ」
そんなことをモゴモゴしゃべっていたのに、いきなり突然私は大声でわめきはじめた。
「わかってないだろっ!! なんにもわかってないだろっ?! なんでそんなに知らん顔してるんだよっ?! おまえのせいでこんな目に合ってんだよっ!」
一瞬だれが怒鳴っているのかわからなかった。会場に罵声が響いているのに仰天した。私が怒鳴っているようだったが、自分が出している声だとは認めがたかった。