カウンセラーさんのブログを読んでいると、ときどき見かけるものの、私にはピンとこないことばがあった。それは「生きづらい」という表現だ。「生きづらいひとは、うんぬんかんぬん、カウンセリングを受けてみると……」みたいな感じで書いているカウンセラーさんもおられるような。
う~ん、私は自分のことを「生きづらい」と思ったことはまったくなくてね。ないんだけど、カウンセリングやセミナーに行くのは好きだからせっせと行くんだけど。
べつに「生きづらい」んじゃなかった。
あたしゃ「努力が足りん。もっとがんばればなんとかなるはずなのに、それができん。やる気が出えへん。努力するためのやる気の出しかたを教えてくれい」と思ってきた。
それは別段「つらい」んじゃなくて「困っていた」。方法がわからなくて困っていた。
私は長年こう考えていた。
「〇〇になりたい!」→「努力したらなれるはず」→「努力が足りない」→「努力するためのやる気が出ない」→「やる気を出す努力が足りない」?→「そもそも根性がない」??
そう、「努力とやる気と根性」ってなんじゃらほい?で行き詰まっていた。
で、このごろようやく、なるほど、こういうグルグルをエンドレスで回していることを「生きづらい」というんだなとわかってきた。
そして、去年「ビリーフリセット・リーダーズ講座」へ通い、そのあともFacebookグループで堀江さなえさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)をはじめ、認定カウンセラーさんや受講生さんに助けられて、「生きづらさ」の大元が徐々に解明されてきた。
あのさ、そもそもさいしょの前提がまちごうてたんよ。
さいしょの「〇〇になりたい!」の選びかたや動機が×だったわけ。
たとえば「音大生になりたい!」と思った。(それ以外にもいろいろ「〇〇になりたい!」をやってきた。)
なんでそう思ったのか?
表向きは「いや、音楽の勉強をちゃんとやりたい」とかもっともらしいことを掲げていた。だけどオノレの心をよーく観察してみたら、すいません、だれかに「すごい」と言ってもらいたいだけだった。ちーん。
その「だれか」というのも、もとをただせば「親」だった。子どものときに親に認めてもらえなかったことを延々根に持って、いつかなにかをどうにかして「すごい、よくやった」と言ってもらいたかっただけだった。ちーん。
「カウンセラーになりたい!」はどうか?
そっちはと言えば「カウンセラーで開業できたら、パートやめられる」ってのが動機だった。べつに「カウンセラーになりたい」んじゃなくて「パートやめたい、働きたくない」だけだった。ちーん。
まあそりゃね、そういうヨコシマな動機ばっかりじゃ、やる気も出ないよな。どれもこれもべつに「ほんとのほんとにやりたいことじゃない」もんね。
そいで悟ったわ。
「努力できない」「やる気が出ない」「根性がつづかない」モノというのは、ことごとく「やらなくていいモノ」なんだねえ。
「本来の自分」は、それ、やりたくないんだよ。向いていないんだよ。
「やりたくないモノをなんとかしよう」とするから、つらいんだ。なので「生きづらくて八方ふさがり」になるんだねえ。
というわけで、あたくしはこれから「〇〇になりたい!」などとゆめゆめ思わないことにした。それ、考えんでよろしい。だってもう答え出てるもん。
〔問い〕つぎの三つのうちから、てめえが本当になりたいものを選びなさい。
1.音大生
2.カウンセラー
3.年金受給者
うおおっ! 当たりめえじゃん! あたしゃ年金受給者にしかなりたくねえよーっ!
マジで、いっちゃん年金受給者になりてえわっ!
要するに「365日休み、無職でぶらぶら」があたいのパラダイスだよっ!
ふう。
ひと目を気にすると、なさけない結論だけどね。
でも、本当に私は、この三択だったら年金が抜きん出て魅力的なのだ。それしかない。
それが、「私」なんだねえ……。
他人からどう思われてもいいって開き直ったら、奥の奥から出てきたホンネは「年金でぶらぶら」だった。
そしたらさ、ウチの親ってものすごく先見の明があったって気がついたわ。
だって、両親とも「こいつは高校出たら会社に勤めるのがええ」とキッパリ決めて、会社も選んでくれて、「おまえ、定年まで行けよ」と言ってくれて、でも私はとちゅうでケツ割って辞めてもうたが、しかし会社勤めをしていたから年金がそれなりにもらえるのである。
す、すげえわっ!!
ウチの親、「こいつがいっちゃんなりたいモンは『年金受給者』だ」ってすでに見抜いていたじゃんかっっっ!!!
はああ、親って偉大だねえ。
子どもの本質をちゃんとわかっているんだね。
ほんま感謝してる。伏し拝みたい。
父ちゃん母ちゃんありがとう。
私はあと6年生き延びて、りっぱな年金受給者になるよ。