「愛すること」の切れっぱしが見えた?

私は「愛する」ということがわからない。

「愛する」とは、どうやら「与える」ことらしい。では、「与える」とはどういうことか?というと、かなり以前に根本裕幸さんがある心理学セミナーでこう言われた。

「『与える』というのは、その与えた瞬間、自分も相手から『同じ価値のものを受け取る』ということです。『与える』と『受け取る』が同時に発生して完結します。相手のひとの反応はいっさい関係ありません。相手に期待することもまったくありません。

『私がこれだけしてあげたのだから、同じだけ返してね』というのは『与える』ではなく、『取引』といいます。それは『愛』ではありません」


このお話を聞いたとき、すごいなあ、でもたぶん「愛」ってそういう次元のことだろねと思った。けど、禅問答みたいでよくわからなかった。わからないながらも、この「与える」という境地にあこがれた。

あこがれながらも、私にはとてもできないと思った。そもそも「相手に期待をしない」ということが不可能である。私はひとと会話をしていても「私が0.3しかしゃべってへんのに、おまえは10しゃべりよったな。9.7の貸しはいつか返せよ。3倍ぐらいにして返せや、オラ」と恨むのである。

さて、くわしい内容はガバッとはしょるが、私はカウンセラーさんふたりから「春子さんは他者貢献ができないね」と言われたことがある。時期はべつべつ、カウンセラーさんもべつべつ、なのに! 見るひとが見ると、私は「他者貢献ができない人間」だという。

ええと、あんまりいい気分にはならない。でも、そのおふたりともが「他者貢献ができないから、仕事に取り組めない」とおっしゃっていて、はあ、そうか、要するに「与える」ことができないから→仕事ができないのかと思いいたった。


まあ、たしかにプライベートでもだれかになにかをしてあげようとはまったく思わない。私はつねに自分のことしか考えていなくて、自分がなにを考えているか、なにを思っているか、どう感じているかにしか興味がない。

で、他人からは「なにかもらうこと」しか考えていない。満足に働けないけど、給料はちゃんと欲しい。それだけである。いや、ホンネは「働かなくても自動的にゼニくれや」である。

自分勝手だなあと思うものの、そうとしか考えられない。そこんとこは、なんか努力して急に「貢献する意欲」が湧いてくるモンでもなく、ただ「べつに、他人になにか与えたいと思わない。しゃーないやん、思わないんだから」でおしまいだ。

ふつうのひとは「与えたい」と思うのかな?
ふつうのひとは「愛したい」と思うのかな?
でも、私はなんにもしたくないけど。


ヘンかね? どっかのスイッチ故障しとるかね? なんか詰まっとるかね? 便所のあれ、カッポンカッポンとか試したほうがええかのう?

そしたら、今夜とつぜん「開通」した。
やにわにざんぶりコと降ってきた。

「愛とは、そこにある『存在』を慈しむだけでいい」ということ。
「愛とは、その『存在』があるがままに『存在』していることを、ただよろこぶ」だけ。
「愛とは、まるでそこに咲いている花をうつくしいねと感動する」だけ。

あああ、そういうことなんかーーーっ!とわかったら、涙がどっとあふれてきた。


仕事中なのにね、ボロボロ涙が出てきた。そのうち鼻水が垂れてきたから、バックヤードへ洟かみにいった。

へええ、そっかー、そういうことかあ。
ってことは、自分いらんな。

そうそう、おとついも思ったけど、結局「自分いらん」のである。まあ、見ているだけでいいのだ。どんな「存在」に対しても「ながめてよろこんでいたら、それでいい」のである。

「私はなにひとつやらなくていい」と納得したら、同時に「だれかになにもしてもらわなくていい」もやってきた。

こ、こんばんは。


ふうん、「存在」ってこんなに独立しているもんなんだねえ。それだけで自立して満たされている。

じゃあ「愛」って結局、「祈る」ということかなあと思えてきた。たぶんそうだろ。どの「存在」も自力で花を咲かせているのだから、そこに介入する必要はない。

そしたら、ふとこう思った。私が他者貢献できなかったのは、そこまで自分に力があると信じていなかったからかなあって。

もしかしたら「与える」だけの力がちょびっとでもあるかもしれない。

パート帰りのスーパーで、また涙をボロボロ流してグルグル歩き回ってあれこれ考えて、でも、ものすごくうれしくておかしくなっていた。

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