ゾンビを見て「あ、ゾンビだ」とわかるのはどうしてだろうか?

昨日の記事で紹介したマジシャン「聖なるリアナ」(The Sacred Riana)の動画のなかで、↓ゾンビがわらわらと出てくるシーンがある。

このパフォーマンスの最後に、リアナが瞬間移動して突如まったくべつの場所にあらわれるのが、めちゃくそカッコよくて、そこばっかしたぶん50回は見てるわ。

いやあ、こーゆーのもピアノに活かせるよね。いきなりバーンと出てくる印象的な和音なんか、このぐらいドギモ抜くほどカッコよくキメたいじゃん。やっぱりピアノも演技や演出がすごく大事。てか、そんなのをやりたいから弾いてるんだよね。


さて、このパフォーマンスをさいしょに見たとき、あのボックスからぞろぞろ出てきた化け物たちのことを、私は「あ、ゾンビだ」とすぐに認識できたのだ。

そのことが、自分でもふしぎでね。というのも、私はテレビも映画もほとんど見たことがない。もちろん外を歩いているとき、たまたまゾンビに出会ったこともない。

にもかかわらず、私はすぐさま「こやつらはゾンビだな」とわかり、さらに「もうちっとギクシャクして無表情なほうがゾンビらしいな。ゾンビの演技はもひとつだな」と感じた。

ということは、私は過去において「ゾンビをなにかで見た」にちがいない。たぶんテレビだろうな。そのときに、ちゃんと脳ミソに「ゾンビとは、死人がよみがえったヤツで、ギクシャク動いて無表情」という情報が書き込みされたんだ。仕事はぜんぶ「書き込みエラー」だけどな。


それであらためて納得したのだが、結局「まず過去にゾンビを見て、ゾンビとはこれこれしかじかであるという記憶がある」からこそ、いま見ている動画で出てきた化けモンを「うん、これはゾンビである」と判断できて、記憶にもとづくイメージにより「もっとこういうゾンビのほうがいいな」と思えたのだ。

つまり、ピアノにおいても、まずは「こういう旋律は、かくかくしかじかという演奏が一般的である」という記憶があれば、べつの曲で同じような旋律が出てきたときに「うん、これはこんなふうに演奏すればいいな」と判断できるんじゃないかねえ。

そういう「音楽的な常識」というか「共通認識」みたいなのが、まずたっぷり自分のなかにないと、ぜんぜん音楽的な演奏にならないんじゃないか?

ゾンビをまったく見たことがないひとに「はい、歩いてください。ゾンビとして」と指示しても、そのひとが過去にゾンビの演技を見たことがなかったら、「は? とりあえず歩くのか」ぐらいで、ふつうにスタスタ歩くんじゃないか?


すいません、なにが言いたいかというと、私にはまだまだ「音楽的常識」が欠けていて、だもんで、まるでゾンビが健康的にしゃんと歩くみたいなのをピアノでやってるんじゃねーか?ってことだ。

ほんと、左手の伴奏和音がデカすぎて悪目立ちしているとか、元気いっぱい溌剌ゾンビみたいで、そういうのを自分でぜんぜん気づけず、先生に指摘されても「あ、そっかー」ぐらいにしか思わない。

「弱拍の音、平気でドッシン」とかも、すっげえ常識はずれなんだけど、自分で弾いているときに「コレはおかしい」とわからない。何度も注意されるから「うん、気をつけなくちゃ」と思うものの、ハラの底から「ソレって、ものすごくヘンだ」とまで感じられていない。

なので、私はもっと「音楽的常識」をインプットしなくてはならない。


要するに「もっとたくさんいい演奏を聴け!」ということだ。

ダンスやゾンビばっかし見とらんと、肝心の音楽聴けや。聴いたうえで、自分の演奏を客観的に聴き分けられるようになれや。

ピアノもマジックもマンガも、みんな「作り物」に過ぎなくて、見ているひとたちは全員「うん、これはフィクションだな」とじゅうぶんわかっているのに、まるで自分が体験しているかのような感覚を味わって、「ああ、おもしろい、よかった、すごかった」って思えるなんて、なんとまあ、人間は高度な楽しみかたができるんだろうねえ。

ピアノって、せっかくその「作り物を演じる側」になれるんだから、ちょっとでも「らしく」演じたいよな。

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