「オカしいわね、病院では、あんなに遠いトイレへひとりで行けていたのに」とコボす母。
いまウチでは、ベッドからトイレまで3メートルぐらいかね。
その距離が歩けなくて、歩行器の横から、私がガッチリ支えて、ナメクジカタツムリのようにノロノロヨタヨタ往復する。
退院してから、母の人柄が大きく変わった。
むかしの気性の激しさは、すっかり鳴りを潜めてしまい、おだやかでいつも笑顔を浮かべ、おっとりした口調でおしゃべりをしている。
いまの口癖は「ありがとう」と「感謝しています」。
めったにグチも言わないし、おなじことの繰り返しもなくなった。
けれども、「オカしいわね、どうして歩けないのかしら?」は、たびたび出てくる。
それはだな、リハビリをしなくなったからだろ?
病院じゃ、ほぼ毎日リハビリしていたから、歩けていたんだと思う。
今日朝いちばん、トイレの往復で、あ、かなり足元があぶないな、と感じた。
そして、午前10時40分、トイレの帰り、歩行器に手をかける直前、母はグダグダ~ッと崩れるように倒れ込んでしまった。
私は、母の腕をつかんでいたが、支えきれず、ま、ゆっくりと母ちゃんをコロがしてしまった。
これで7回目の転倒。
コロリンと床にのびただけなので、どこも打ち身はなし。
入院する前は、ころんだあと、自力で体育座りまでできて、ベッド脇まで、ゆっくりイザることが可能だった。
けどな、いまは廊下にコロがったまんま、寝たきり。
こんなん、どないしまんねん?
とりあえず、枕をあてがい、毛布をかけ、背中にようやっと薄いマットを押し込む。
しばらく母と「これからどうしよう?」と話し合う。
10時58分、私は、おとつい名刺をもらっていた、訪問介護事業所のFさんに電話した。
Fさん「いまのところ、そういう『随時対応サービス』は契約に入っていないんです。
ちょっとすぐにケアマネさんに相談しますね」
11時06分、Fさんから電話。
「あらたに『夜間対応型訪問介護+24時間緊急通報加算』を契約すると、いまからでもお伺いできますよ」とのこと。
そのあと、利用料金について、こまごま説明があって、なんですか、6種類ほどの料金を合計して、まあ、ややこしい。
スマホの音声はスピーカーにしておいたので、会話は母に聞こえている。
私「どうする?」
母「しょうがないから、もうすぐ来て~」
なので、契約はまた後日、担当者会議でやれるそうで、とにかくまず、今日来てもらえることになった。
11時22分、早くもFさんがあらわれた。
私が玄関を開けると、息を切らしてハアハア言いながら立っておられた。
いやあ、そんなに急がなくても……
Fさんは背が高く、体格のいい若い男性だ。
すぐさま廊下にコロがっている母に駆け寄り、
「だいじょうぶですかっ?!
どこが痛いですかっ?!」と大きな声を上げた。
母「いえ、痛くはないですよ」
私「ゆっくりと倒れ込んだので、打ったところはないんです」
Fさん「ちょっとお身体に触れますよ」
そう断わってから、Fさんは、両手で母を軽々と持ち上げた。
ひょえ~、さすが若いヒトはすごいねえ。
Fさん、そのまま部屋へ運び込み、介護ベッドの上へそっと母を横たえた。
母と私は「ありがとうございます。本当に助かりました」と何度もお礼を言った。
介護料金は時間単位なので、Fさんは早々に退出された。
母「Fさんってイケメンね」
私「あ、まあ、若いし」
母「ふふ、イケメンにお姫様抱っこされちゃったわ。
またコロんだら、Fさん、来てくれるかしら?」
「ダメだよ。きっと『イケメン加算』とか払わないといけないよ。
てか、もうコロばんといてなあ」
うう、90歳なのに、どうして「お姫様抱っこ」なんか知ってるんだろ?