ひとむかし前、私が仕事をすると「春子さんは、10個やったら3個まちがうよね」と言われていた。
うん、そうかも。気をつけようと思った。
そのうち、10個やると5個失敗するようになり、トシを重ねるごとにミスが7個8個とどんどん増え、去年だか今年だかは10個やると10個ぜんぶまちがうようになった。
叱られたらいちおう「こんどからは気をつけます」とあやまった。
でもいったい、「気をつける」ってなにをどうすることだったんだろう?
注意されたときに唱えるお題目かね?
私は、結局パートで「気をつける」ということがなんなのかわからずじまいだった。
さて、いまピアノで「ドレミファ|ソファミレ」を練習している。ちゃんときれいに弾くのはむずかしい。
とくに左手がうまくいかない。10回弾いたら、そのうちマシなのは3回ほどだ。
もっと練習しないと。
もっと練習して、マシに弾ける回数を増やさないと。
って思っていたのだが、そしたらピアノの先生に「観察してください。考えてください」とご指導を受けた。
それってつまり、いま私は「観察できていなくて、かつ、考えていない」ということだよね。
で、生まれてはじめてハタと気がついたのだ。
ほんま、私、「考えたことなかった」わ。
仕事でミスしても、それに対して今後どうするか?も考えたことなかった。
てか、いつも思っていたのは「そのうち慣れる」ってことだった。慣れるよね、しぜんに、勝手に。そしたらそのうちできるようになるよね。
しかし、永久に仕事ができるようにはなれず、もうパートは辞めることになった。
じゃあピアノは?
それ、仕事とおんなじで「そのうち慣れる」と思っていた。何回も弾いていたら「そのうち慣れて弾けるようになる」と思っていたのだ。
いまは10回中3回しかまぐれで成功しないけど、そのうち勝手に3回→5回→7回→10回と増えていくと信じていた。
けれどもさすがに、それアホちゃう?!と気がついた。
「まぐれ」が自動的に「3回→10回」なんかに増えるはずねーよなっ?!
「ヘタな鉄砲も数撃ちゃ当たる」方式しかやっとらんかったが、それぜったい100%にならねーよなっ?!
たぶんねえ、観察とか考えるとかって、↓こういうことじゃなかろうかねえ。
1回弾いてみて → うまくいかなかったら → なぜうまくいかなかったのか?を考える。
2回目 → うまく弾けた → なぜうまく弾けたのか? ダメなときとなにがどうちがうのか?を考える。
3回目 → 1回目と2回目のちがいを意識して、うまく弾くことを再現できるように弾く。
そんなん、これまでやったことなかったわ。
とりあえず10回弾くとか5分弾くとか、なんか知らんけど手ェ動かしてたら、いつか弾けるようになるって思てたわ。
なるほどねえ、だからこれまで人生うまくいかなかったわけよ。
「いつか勝手になんとかなる」と思って、「自分がなにかすること」を放棄していたからね。
そんなん知らんがな、関係おまへんでぜんぶ放ったらかしにしてきたのう。
けれども、ピアノはそういう具合で済まされない。はじめて蒼くなった。
今日は、左手「ドレミファ|ソファミレ」をじっくり子細に観察しつつ練習してみた。まるで他人の手を観察するかのごとく眺めてみたら、いやもう、いかにぞんざいに適当に弾いているかよくわかってきた。
なるほどねえ、だからまぐれでしかうまくいかなくて大半失敗するんだな。
いままでこんなにいい加減だったのかとため息が出たが、右手左手を同時に左右対称にして超低速で練習しつづけたら、再現率はわりと上がってきた。仕事の失敗ほど壊滅的ではない。まあ、仕事でも「考えたこと」なかったけど。
都合2時間ほど「ドレミファ|ソファミレ」を冷静に観察しつつ、失敗と成功のちがいを考えて練習したのち、モーツァルトのソナタを弾いたらば、右手がすすーっと軽く動くようになっていた。
はは、マジで基礎練習って効果ありすぎ。
笑える。
まあね、ツェルニーってベートーベンの弟子だよね。そんなころから「練習曲」として存在していまの時代も弾かれつづけているのは、そもそもみんな「効果を実感」しているからなんだよね。
と、59才になってようやく気がついたわ。