私は長年親離れができなくて、思い返すと会話の相手は母しかいなかった。生い立ちが不幸だった母は、子どもに対して「母親役」を求めていて、私は母の相手をつとめることしかできなかった。私自身もみずから好んで、友だちが欲しいともパートナーが欲しいとも思わなかった。
だから、長い長い間「人間」といえば母しか知らずに過ごしてきて、その結果どうなったかというと、「人間というものは、365日怒鳴ったりわめいたりしているものだ」という認識ができあがってしまった。まあ、そういう母の姿しか見たことがないので、ヒトってそういうもんだと固く信じ切っていた。
そうすると不思議なもので、私の周りで接するわずかなひとも、なぜか母によく似たひとばかりだった。不平不満を山ほど抱えて延々とグチをこぼすひと、あわよくば私を利用しようとするひと、見栄っ張りでわがままなひとがあらわれる。でも、私はそういうひとに悩まされながらも、彼らにどう対処すればいいかを熟知していたので、うんざりしながらガマンして耳を傾けて、しかしそのうち疲弊しきって彼らとの縁を切っていった。
なので、ずっと長い間、人付き合いは疲れるだけでなにもいいことはないと思い込んでいた。いったいどうして、世間のひとは「友だちと会うのが楽しい」などと言うのか、私にはさっぱり理解できなかった。引きこもって、一年間にヒトとの会話が30分でも、気楽でいいなあと思っていた。
と、ここまでが、ほぼ一年前の考えだったのだが、その後私はカウンセラー先生のおかげで変化した。徐々に「母以外の世界」があることがわかってきた。そして「私は、マトモなひとからは絶対に嫌われる」という強固な思い込みも少しずつやわらいできた。
今日、職業訓練校でいっしょだったひとりの女性に会いに行った。花のような笑顔がすてきなひとで、だのにクリエイターとしての才能も持ち合わせている。去年、訓練校に入って間もなく、こんなすてきなひとがいるなんて!と、話をするたびにドキドキしていた。
昨日から、本当にこのひとといっしょに過ごせるのかと思うと夢みたいで猛烈に落ち着かなかった。待ち合わせ場所で久しぶりに会ったけれど、彼女は以前と同じくこぼれるような笑みで迎えてくれた。
私はやっぱり未熟なので、あけすけに自分の悩みであったりグチであったりを気安く話してしまったが、彼女は真剣に聴いてくれて、そしてちょうど私が言って欲しいようなことばをかけてくれる。そうなんだよね、私はそんな風にだれかに言ってもらいたいとずっと思っていたよ、なぜ貴女にはそれがわかるの?
こんなにやさしいひとって本当にいるんだなあ、と不思議でしょうがないのでぶしつけに訊いてみた。「Aさんは、ずっとそんななの? ずっと昔から?」「そうね、ずっとこんなのよ」「どのぐらい前から?」「生まれたときからよ」
思えばたいへん失礼な質問だったけど、Aさんは気に障った風もなく、クスクスおもしろそうに笑っている。ふうん、こんなひとっているんだ。こんなにまぶしい笑顔がこぼれるひとっているんだ、と私はやっぱりこんなひとは見たことがないのでただ感心するばかりだった。
そうして、いっしょにご飯を食べて、本屋で絵本を見たり、家電量販店に行ったりした。私は……こんなにやさしいひととなごやかに過ごしたことがなかったので、なんとも言えない不可思議な感覚だった。ああ、ふつうのひとって、突然怒り出したりしないんだなあと思った。
Aさんはいつも笑顔を浮かべていて、でもご自分が好きなことの話になると、熱のこもった口調になり目を輝かせていっそう魅力的だった。ああそう、だからあんな作品が作れるんだなあと、私はますます納得する。
名残惜しかったけど、夜になったのでお別れした。またいつか会いましょうと、Aさんは言ってくれた。ふうん、本当かなあ?と信じられない私。それはねえ、Aさんの自由だからね、先になってもホントにそう思ってくれるなら、私はいつでも会いたいな。
Aさんのような友だちが欲しいと思っていたけど、私は長い間、それを自分に禁じていたのだろう。けれども、それはもうおしまいにしよう。
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