モヤモヤにまとわりつかれた一日

北海道放浪が楽しみのはずだけど、あまり手放しで喜べない。そのまえに、いまの仕事がとても気になっている。いきなり辞めることだけでも無責任だと感じているし、先週に指示されたデカい仕事を早く仕上げないととあせっている。

ああしてこうして、それで果たしてうまく完成するのだろうか?と不安になる。まあね、自然に任せると不安になるのが人間の常らしい。カウンセラー先生いわく「危険を察知するためであって、それは本能でもあるのです。でもしあわせにはなれない。しあわせになろうと思えば、いまの時点で『なにも不足はない。すべて満たされている』と思うこと。そういう前提にしてしまうだけのことです」

うん、だから意識して、不安を手放そうかなと思っている。で、仕事を心配している自分のことも責めないこと。ああ、それが私なんだなとそのまま認めること。

気が張っているので今日は早くに目が覚めた。少しだけ部屋を片付けて、ようやくトイレ掃除をして、シャワーをゆっくり浴びて、午後になったら眠くなって床のうえでうたた寝。そうしたら、あんなに楽しみだった合唱の練習もめんどくさくなったけど、がんばって起き出してホールに向かう。

今日はふたたびあのキビしい先生だった。毎回同じような注意を受ける。声の出しかたもなっていないし、なによりも「音楽的でない」という指摘をバシバシ受ける。ああ、音楽的がどうかってすごくむずかしいよね。どんな楽器でもよく言われるけど、それって具体的にどういうこと?

わかるヒトにはわかるけど、わからないヒトにはわからない。そんな気がする。私もどこまでわかっているか非常におぼつかないけど、昔よりは少しだけちがってきたかもしれない。四十を過ぎてからピアニストB氏の演奏をCDでよく聴くようになってから、ちょびっとわかってきたように思える。「ピアニストB氏」というのは、もう引退した巨匠なんだが、私なんかが本名を出すのもはばかられるので伏せている。

で、結局「音楽的」というのは、意識の問題かもしれない。なにも考えていないと「音楽的」から遠ざかってしまう。そして、考えるためにはやっぱりそれなりに勉強しないといけない。ぼーっとCDを聴いているだけではダメで、問題意識を持って演奏を聴き比べたり、それなりに評論とかも読まないといけない。「音楽的とはどういうことだろう?」という問いをずっと抱えて、自分なりに回答を考えないといけない。

それで、ああ、もっと勉強せんといかんなあと思っていたのに、なぜか今日の練習はみんながうまくかみ合わなくて、先生をかなり怒らせてしまった。そもそも「音とり」ができていないのも一因。「音とり」とは、自分のパートをひと通り歌えるようになっておくことだ。

これも全員に同じレベルを求めるのはむずかしい。楽器経験がたっぷりあるひとは、楽譜もスラスラ読めてすぐにマスターできる。いつも話をしているNさんなんかは、すでに全曲歌える状態に仕上げている。しかし、音楽の経験がほとんどない初心者だったら、音符からどんな音なのかを想像することもできない。それにけっこう高齢のひとが多いので、みっちり自主練を強いるのもどうかなあと思う。

でも、先生は先生で、しろうとの合唱団でも高いレベルのレッスンをして、そのほうが結果的にみんなが合唱を楽しめるはずだと思って指導してくださる。先生のめざしどころもよくわかるし、かと言って、私もまったくの初心者なので付いていけてない部分がどっさりある。

結局、先生が折れてくださって、途中からレベルを落としゆっくり音とりの練習をしてくれた。でもそれは先生の本意ではないから悩ましいね。趣味だからそこまでキビしいのは困るというヒトもいるだろうし、どこで線引きするのかむずかしい問題だ。

たかが趣味、されど趣味。しかし、趣味にどれほどエネルギーを注げるか?も考えないといけない。ああ、これは仕事にも当てはまるかもしれない。仕事もできるだけ打ち込みたいけど、いまの私みたいに途中で自爆してしまったら元も子もない。

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