「ほんとうに欲しいもの」って「怖い」。
長年ぼんやりと、ピアノを習いたいと思っていたけど、私は動けなかった。
なぜピアノの先生を探せなかったのか?
自分の顕在意識では、「どうせいい先生なんて見つからないしね。見つかったとしても、こんな初心者はお断りだろうしね」と思って、探すことすらしなかった。
でも、いまよくよく考えてみると、ココロの奥底では「恐怖」を感じていたからだと思う。
なにが怖かったのか?
それはたくさんある。
自分を否定されるんじゃないか?というのが、いちばん恐ろしい。
そんな演奏で、ピアノを弾いてるつもり?と嗤われるんじゃないか?
自分のことを棚に上げて、すごく理想が高いから、私自身がエラそうな物言いをするんじゃないか?
密室で一対一の指導を受けると窒息するんじゃないか?
指導のとおりに弾けないんじゃないか?
ずっと手が痛いまんまじゃないか?
等々、「ピアノを習わない理由」ってなんぼでも出てきよる。逃げたいのだ。
さて、自分でもびっくりしたが、いまから4年まえにN先生の個人カウンセリングを受けたときにも、「ピアノを習うかどうか?」でゴタゴタ言うとったわ。
むかしのブログ(いま閉鎖中)を読み返して発見した。
どんだけ長いあいだ「ピアノ問題」を抱えていたのか、てか、どんだけアホなんかアキれてみたいので、そのカウンセリングの様子をココに抜粋しておく。
母の問題に引き続いて、つぎに「私自身の生きかたについて」お尋ねしました。
すると先生は「春子さん、このあいだのワークショップに出席されていましたが、『夢をかなえる心理学講座』で取り上げた『子供のころに夢中になったもの』、あれはいかがでしたか?」
そうそう、2月1日のワークショップでやりました。
「夢」を明確に描くためにまず「情熱の源泉に出会いましょう」ということで、過去にとても情熱を感じた出来事、つまり、夢中になった、うれしかった、楽しかった、おもしろかった、ハマった、ワクワクした経験を書き出すというワークです。
「はい、それはですね、子供のころではないのですが、自分がいちばん好きなものはハッキリとあります。
それは山登りです。三十代ではじめたのですが、自分がいちばん好きなことですね。
山にいるときは至福の悦びを味わえます。一点の曇りもなく幸せになれます。自分が生まれてきた理由は、山に登るためだったと言うこともできます」
先生は黙ってうなづいて聴いておられます。
「ただ、四年ほどまえから音楽が気になってきました。昔子供のころにピアノを習っていましたが、急にそのことを思い出して……
いま、ピアノを習いに行こうかどうか迷っています」
趣味をどうしよう?という、なんですか、能天気な相談になってしまいそうですが、「山に戻る」と「ピアノを習う」とでは、私にとって方向が真逆なのです。それを先生に話しました。
「もし『山に戻る』としたら、まあ病気があるのでもう昔のように登れないのですが、それでも、もう一度山だけに向き合うとしたら、それは私にとって『引きこもりを極める』ことになります。というのも、山では『ひと』が一切不要だからです。山と自分だけで完結してしまって他人が必要ないのです。
そうではなく『ピアノを習う』とした場合は、これは『引きこもりからの脱出』という方向になってしまうのです。独学では手の故障が多いので、ピアノの先生に付かないといけない。そうすると、少なくともピアノの先生との人付き合いが避けられないのです」
で、私はこのとき、単なる好奇心でついうっかりこう訊いてしまいました。
「先生が私をご覧になって、どうすればいいのか、どんな印象をお持ちですか?」
そうしたらですね、先生はそれまでとはちがって、やや大きなリアクションで、「それは……言えないんですよ。春子さんのココロがどう感じるか、ですから」
おっと~、すみませんでした。それはそうですよね、進むべき道は自力で見つけないといけません。それをサポートするのがカウンセラーの役割ですからね。
先生「したいことをしましょう。それだけです」
う~ん、何の迷いもなく好きなのは山なんですけどね。ピアノだと、そう!自己顕示欲がウットウしいじゃないか!
「けれども先生、もしピアノにしたら対人関係が生じますから、自己顕示欲のことで悩まないといけないのですよ」
「自己顕示欲はだれにでもありますよ。それに、お母さんとの癒着の問題を解決すれば改善されてくると思います」
「ふうん、そうなんですか? でも、不純なモノを抱えたままでピアノを弾くのはよくないんじゃないかと……」とモゾモゾ先生に頼るように渋っていたら、
先生「そんな、自己顕示欲がなくなってからなんて言っていたら、いつになるかわかりませんよ。
それに、純粋な気もちでピアノを弾きたいと思うこと自体、それは『完璧主義』です」
出た~っ! 完璧主義ですか?!
いや、自分はそれだけはヤメておきたいと思っていただけに大ショック!
昔、あるひとに言われたことがあるんです。
「完璧は『神の領域』です。完璧をめざすのは神の領域を侵すことになるんですよ。アナタはそうしようとしていますね」って。
ひゃ~~~ す、すみませんでした。そんなエラそうなこと、言っちゃってすみません。いやホント、恥ずかしかった。穴掘って隠れたい気分でした。
「すみません……じゃ、やってみてからヤメっていうのもアリですか?」
「いいですよ」と大きくうなづく先生。
「山 vs. ピアノ」=「引きこもり継続 vs. 引きこもり脱出」
う~ん、う~ん、迷います。
先生「ですから、したいかどうか、です」
う~ん、そもそもピアノを弾くことが大好きというわけじゃないし。
私「……引きこもっていたいです」
先生「引きこもりのままなら、自己顕示欲の問題は未解決になります」
そ、そんなキビしい……
私「でも、慣れ親しんだ山だったら確実に幸せになれるとわかっていますし……」
先生、無言。
あ~ つまり先生は「ピアノやれっ!」というわけですね。
困った、困った。
そもそもなぜピアノを習うことに抵抗を示しているかというと、
・ピアノの先生と一対一で過ごす時間が怖い。
・いろいろ難癖、じゃなくて指導をされるのがイヤ。
・指導されたことをどうせできないからイヤ。
・自己顕示欲を軽蔑されるのがイヤ。
・レッスンに通うのがメンドウくさい。
・レッスンの前日にお風呂に入るのがメンドウくさい。
・それなりに洗濯するのがメンドウくさい。
・毎日ピアノを練習するのがメンドウくさい。
だって、いままでどおり引きこもりだったら、風呂も洗濯もしなくていいし、夜中の3時に寝て昼に起きるぐうたら生活を満喫できますからね。
ありとあらゆることがメンドウくさいから引きこもりなんです。
うう、このまま引きこもらせてくだせえ、と甘え切って黙っている私に、
先生「あえて成長するための選択というのもあります」
はあそうですか、やっぱりピアノ弾けっ!てことですかね?
ここまで先生がおっしゃってくださったのに、結局このとき私は、ピアノを習う決心がつきませんでした。
さ、さすがに「いま現在」はこのときよりちょびっと成長してるような気がするわ。
引きこもりもようやく解消しとるしね。たまに風呂も入っとる。
師事したいと心底思える先生に会いに行って、とうとうレッスンを受けるところまでこぎつけたしね。
けれども「恐怖心」は抱えている。
「強烈に習いたい気もち」と「一目散に逃げ出したい気もち」は、「51対49」ってとこだね。
しかし、そこまで恐怖を感じるものは、きっと「ほんとうに欲しいもの」である証拠なんだろう。
だから、どんなに怖くてもバンジー飛ぶんだ。
こんどこそ、ほんとうにすべてを賭けて、捨て身で飛び込んでみるんだ。