本当は「結果」はいらない、「過程」だけでよい

こんなにも「記憶の衰え」がヒドいと、いちばん心配になったのは「カウンセラー養成講座」のことだ。今週末から毎月2日間(土・日)受講する予定になっている。

ずっと以前からカウンセリングをきちんと勉強したかったので、去年の秋すでに申込み済である。そういえば、申込みをした時点ではココまで不安じゃなかった。心理学は二十代後半から興味があって、河合隼雄(臨床心理学)の本をよく読んでおりなじみがある。

いや、思い返すと中学生のときに、父ちゃんが持っていたフロイト全集を拾い読みしていた。なんか当たり前みたいに心理学や精神分析の本はけっこう読んでいた。ぜんぜん理解していなかったけどね。フロイトはやたら神経症の症例ばかりあったかな。

二十代後半のときは、河合隼雄のほかに、神谷美恵子(精神医学)が好きでこのひとの全集をかなり熱心に読んでいた。中井久夫(精神医学)もよかったな。頼藤和寛(精神医学)も好きで、いちど講演に行ったこともある。四十代は春日武彦(精神医学)がおもしろかった。なぜか精神科医ばっかりだ。

まあ、なんかそういうのがむかしから好きなんだよね。ちゃんと勉強したことはないが読む本がソッチ系に偏りがちだった。精神医学とカウンセリングって、まったく根本的にちがうものだろうけど、自分のなかではおんなじような方向に思えて、勝手気ままに読んでいた。



長年本を通してしか「ココロのなんとか」を知らなかったが、数年前にカウンセラーN先生の講座に出席して「ナマ講義の魅力」にドはまりした。僭越で申し訳ないけど、「スゴいヒトって河合さんや神谷さんだけじゃないんだなあ」とはじめてわかった。

その延長上として、ようやくこれから正式に「カウンセラー養成講座」を受講することになったのだが、ああ、ここまでアホになっていてこれからだいじょうぶなんだろうか?とため息をついている。

図々しいのは承知しているが、「将来はカウンセラーになりたい」という気もちがあるので余計に心配だ。つまり、プロになれるほどちゃんと技術が身につくか? てか、そのまえにそもそもナニを教えてもらっても「すべて忘れてしまう」んじゃないか?

まさかねえ、こんなことを心配しないといけないとは、オノレでも予測できなかったよ。2年ちょっとまえに職業訓練を受けていたころは、小テストとかもそんなに努力せずクリアできていたからね。しかし、現時点では相当あやうい。つまりこの2年間で「かなりエラいこと、記憶力が低下している」のが事実だ。



ただし、カウンセラー養成講座を受講したからといって、かならずしもカウンセラーにならないといけないわけじゃない。「着地点が『自己探求』であっても、まったくかまいません」とカウンセラー先生はおっしゃっている。

しかも、この養成講座を受けたのち、その先生の「認定カウンセラー」になるには非常にむずかしいらしい。合格基準がとても高いそうだ。なので、そもそもワシがいまごろからこの先生のお墨付きをめざすこと自体、なんかものすっごくハードルが高すぎる。

ちまたには半年ほど受講すれば「認定カウンセラー」を名乗れる養成講座がいくらでもあるのに、たぶんこの先生のところだったら2年間ぐらいは修行しないといけないかなあ。それでも認定してもらえる保証はまったくない。

はれ? なんか似たようなシチュエーションがもうひとつあった?
そうそう、音大受験もピアノの先生のOKが出ないと受験すらできないものだったよね。で、もちろん合格するかどうかわからん。



いったいなぜ好きこのんでこういう道ばかり選ぶんだろうね?

いや、それはだな、ピアノもカウンセリングもいっしょなんだけど、「その先生にどうしても習いたい」っていうのが出発点なのだ。ホント、それがはじまり。だから、そうだね、「習っています」というだけで、じつは当初の目的は達成されているのだよ。

ということは、本当のところ「結果はどうでもいい」んだよね。いちおう「某芸大進学する、カウンセラーになる」という「結果」を設定はしているけど、ワシにとってもっとも大切なのは「習っているという過程」だなあ。

そうであれば、いまのように徐々に記憶障害をきたしていても、まあそんなことはたいしたことではないね。ただ単に「教えを受けたい」だけだから。
「教えてもらいたい、ハナシをぞんぶんに聴いてみたい」という欲求に正直であればいいだけかもね。

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