こんなにも「デキない自分」なのに、それでもつづける理由

「目的地へたどり着くためには、何時にウチを出たらいいか?」ということそのものを忘れて、たいそう苦労した。結局深夜2時すぎに寝て、今朝6時に起き、新大阪駅で新幹線回数券を購入、さすがにコリて余裕を持って新幹線に乗り込み、カウンセラー養成講座には開始40分まえに到着した。ふう。

これまで心理学セミナーはけっこう行ったものの、今回のようにきちんとカリキュラムが組まれた長期の講座ははじめてだ。カウンセラーになろうか?どうしようか?と一考したのは、かなりむかしで30才前後だったが、最終的にいまごろになってしまった。

理由は明白で、阪神大震災のあと、眠れなくなった→上司に勧められ西国三十三所巡り→ついでに登った低山にハマる→山登りにどハマりする→延べ500山ほど登っているうちに10年経過したからだ。心理学なんて忘れ果てていた。

山ヤで生涯終えるつもりだったのに、雲行きが怪しくなる。徐々に「音楽」のことがチラチラし出す。13才でやめたピアノが、いまごろになって気になり出す。芋づる式に、音楽が好きだった両親のことをあれこれ考えはじめる。



そしたら、いつのまにか心理学のセミナーに通うようになっていた。まあ、三十のころ心理学の本をたくさん読んでいたのも、もとはと言えば母ちゃんとの関係をなんとか改善したかったからで、「心理学と両親」はセットメニューなんだよね。

30才ごろに読んだ本は、まだちょっとだけ覚えている。いま現在どんな本を読んでも片っぱしから忘れてなにも残らないけど、ああ、むかしに読んだモノは残っているねえ。

今日、カウンセラー養成講座の初日講義を受けて、河合隼雄のコトバをしきりに思い出した。「僕らは『なにもしないことに全力をあげている』んです」「その場に『いる』だけで勝手に患者さんが治る」「治っていく時には、何か『ものすごくうまいこと』が起こる」

カウンセリングの手法もいろいろで、必ずしも「なにもしない」わけじゃないけど、今日の講義では「カウンセリングの特徴→解決しない、指示しない、アドバイスしない」とあらためて教わって感慨深かった。



ただし、自分がわずかに持っているモノは単なる「知識」に過ぎないと痛感した。なぜなら、ワーク(実習)をやってみると丸っきりできなかったからだ。受講生同士でペアになり、実際に「話を聴く」ということを体験してみるのだが、いやあ、ものすごくむずかしい。

とくにオノレを振り返ると、相手に対する「愛」がないと思い知らされた。「愛」ってなんやねん? ま、ワシの勝手な推測だが「そのひとがそこに存在して生きていることそのものを慈しむこと」じゃないかと思う。

で、そうは思えないなあとオノレの本心がわかったよ。

そう悟らされた根拠がもうひとつある。それは、実際に「愛」に満ちた「聴き方」をすでに実践できるヒトたちがいたからだ。いろんなヒトとペアになったけど、そもそもこういう講座に来ているヒトたちって「もともとすばらしい」んだよね。



ちょっと話すとわかるものだが、あ、わかるなんておこがましいか、でも、そのヒトの善良さであったり、まじめさ、すなおさ、努力、思慮深さといったものがヒシヒシと伝わってくる。そのヒトの個性そのものがすでに価値を放っていて、そういう相手に一所懸命聴いてもらうと、まあそれだけで心打たれるんだよね。

まるで「悟り」を開いたかのように歓喜の涙をこぼしているヒトもいた。あれはたぶん「法悦」だ。「愛そのもの」に浸っている姿だった。

残念ながら、ワシはそこまでの「愛」を持ち合わせていない。さらに、相手が話す内容をすべて記憶することも不可能だった。

ほほう、前途多難だなあ。なにをはじめても「障害」があるなあ。

ピアノをやれば、手が痛い。
カウンセリングの勉強をやれば、愛せない、話を覚えていない。

それでも、つづけるのか?

そうだ。つづける。

それはもう、「だれかのため」ではない。
それは、将来自分が「よく死ぬための準備」なのだ。

今生、どうしてもピアノとカウンセリングだけはやってからでないと死ねない、と思っているからだ。

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