「自分へのごほうび」ってコトバ、これってむかしはなかったんじゃねーの? ともうじき58才になるババアは思うのだ。
ついでに「譜読み」ってコトバもむかしはなかった。そのはずだ。でも、ワシより推定10才はお若いピアノの先生がふつーに「譜読みがなんとか」とおっしゃるので、あーそうか、いつだったか10年間のうちに「譜読み」っちゅーコトバが製造されたんだなと考えている。たぶん、昭和50年代?(1975~1985年?)ではなかろうか?
「ごほうび」のハナシに戻る。ええと、「自分へのごほうび」ってのを見たり聞いたりすると、いやべつにそないな言い訳せんでも、欲しいモンはさっさと買うたらええし、行きたいトコはどんどん行ったら?と思ってしまう。
というのも、ワシは「待て」がデキないからだ。「欲しい」と思った瞬間、即買うことになるし、「行きたい」と思い浮かんだらすぐ行く。ほぼ「待つこと」がデキない。犬でも「待て」がデキるのに、ワシは犬にも劣るババアやねん。
なので、とくに「自分へのごほうび」を与える意識なくずーっとやってきたが、いや、ちょっと待て。それこそ待て。ワシも「ごほうび」やってるかもしれん。
どこかでチラッと読んだんだけど、「『自分へごほうび』をあげたくなるときは、ストレスが溜まっている。オーバーワークの状態だ。つまりしんどいんだ」というハナシが引っかかっていてね。
やらないといけないことが押し寄せてきていてさばけないとか、オノレのスペック超えたことやろうとしているとか、ガマンばっかりしてるとか、なにせぱっつんぱっつんだと、「自分へごほうび」あげたくなるのかもしれない。タガはずしたくなるのかもしれん。なんとなくソレでスッキリするような気になるんだろう。
でもたぶん、その「ごほうび」ってそもそも「計画的」じゃないよな。オノレの深い部分が欲しているモンじゃなさそうだ。
で、ワシがしょっちゅう「ごほうび」にしているヤツは、じつは「時間」だと判明した。「ぼーっとしている時間」が、ワシにとってはなによりの「ごほうび」だったのだ。だからもう、毎日スキあらば「しんどいからごほうび」「仕事で疲れたからごほうび」「ピアノ練習したからごほうび」っちゅーてダラダラしまくってきた。
この「ダラダラ」、非常に歴史が長い。いまでもよく覚えているけど、小学1年生のとき学校から帰って来たら、もうダラダラしていた。ランドセルを片付けるとか着替えるとかがもうできない。学校だけで疲れている。なので、そのごほうびとして7才のときからダラダラしていた。
なので、この「ダラダラごほうび癖」をあらためるには相当な困難が予想されるが、それでも変えたい。
なぜなら、その「ダラダラ」がそののち「有益に作用したことがいちどもない」からだ。なにもせず「ダラダラして失ってきた時間」はいったい何十年になるだろう?!
しかし、そもそもなぜ「ダラダラごほうび」というエサを欲しがるのか?といえば、もとはといえばオーバーワークが原因なのだ。しんどいからなのだ。それはもう「自分の基準を超えている」んだよね。ワシにとっては「小学校へ通う」ということですら「オーバーワーク」だったんだ。
まあ、だから今日あらためてわかったけど、いまのパートも「自分の基準超えている」ねえ。毎日しんどすぎるもん。だから、ウチ帰ってからダラダラしちまうもん。ちょっと思ったが、ココまでしんどい仕事は「オノレの身の丈を超えている」。
将来もしクビになったら、それはそれでいい機会を与えてもらえたと思えそうだな。つぎは身の丈に合った仕事を探せるからね。