今朝もパート先でチョンボをやらかした。朝一番金庫から釣り銭用のお金を持ってきてレジに入れるのだが、そのときどういうわけか50円玉だけ入れるのを忘れた。そしたら、あとでちょっとした騒ぎになった。先輩パートさんがレジに50円玉がないことに気がつき、「春子さん、どうやって50円玉だけ忘れられるんですか?」と言う。
いや、そう訊かれてもね。ワシもナゾだわ。千円札入れて、500円玉入れて、100円玉入れて、どういうわけか50円玉だけ忘れて、10円玉入れて……という具合なんだがね。
たしかにふつう順番に入れていったら、50円玉だけ忘れるというほうがむずかしいかもしれない。なんだけどそのむずかしいほうにハマッちまった。理由なんかわからん。まあこの手のまちがいはよくやらかすのであっさり「すんません、これから気をつけます」とあやまってとくに気にしないことにした。
そういえば、今日朝メシのとき、電子レンジを開けたら中にオカズが入っていた。ああそうだ、昨日の夜あっためたまま食べるの忘れたヤツだな。コレもよくあることで慣れている。
いろいろ忘れるのは事実だけれども、それに対して「自分が反応しない」というチョイスもあると気がついた。
仕事のミスはこれからもつづくだろう。次回は10円玉を入れ忘れるかもしれない。そもそも「今日50円玉を忘れた」という事実をいつまで覚えていられるかも危うい。だから同じことばかりまちがってしまう。
しかし、もう気にしないことにした。これがありのままの自分だからしかたがない。ある程度努力はするけれどもムリしようとは思わない。
で、クビにするかどうか?を決めるのは店長さんだ。ワシが決めるわけではない。なので、クビの判断は店長さんにお任せして、ワシはなにも考えないことにした。怒られたときはいちおうしおらしくあやまっておけばいい。クビになったら次の仕事を探せばいい。
それよりも、今日は月曜日なのでウチに帰ったらピアノの練習がエラいことになる。明日がレッスンなのにアレができてないコレができてないと、まあこれは楽しくひとりで騒いでみる。
ピアノに関する記憶はかなり歩留まりがいい。前回のレッスンで指導を受けたことって、そういえば楽譜にも書かれていないし、ワシもメモとらない。それでも覚えているね。ウチでの練習内容はノートに記録してあるので、そこへたまに書いたりはするけれど、基本的にソラで覚えていることのほうが多い。
なぜだろう? そりゃまあオノレの最大関心事だから忘れないなあ。それに指導されたことは大きな感動を伴っているからさらに忘れにくいのだと思う。
「忘れることは、自分にとってどうでもいいことなのだ」と聞いたこともある。そのとおりだろう。パートの仕事そのものに興味ないからね。
ってなことをしゃあしゃあと書いたら、「給料もろてるクセにナニ抜かしてけつかるねん?!」ってどっかから石飛んできそうだけど、いまの自分に、どうやら興味のないことはもう記憶に残らないようだ。もうそんなふうに脳ミソが変容してしまったんだ。オノレの意志や努力でなんとかなるものでもない。
そう開き直ったら、もの忘れは「悩み」ではなくなりつつある。むしろ、もの忘れというのはワシにとって「なにが大切で、なにがそうではないのか」を教えてくれるサインなのかもしれない。
忘れるものは重要じゃないんだ。どうでもいいことなんだ。
覚えているものは大切なものなんだ。そして、その大切なもののことだけ考えていたらいいんだ。
そんなことを言ってたらメシが食えなくなるか? いや案外なんとかなるだろう。
カウンセラーN先生が以前こう言っていた。
「世間はやさしいんだよ。思っているよりずっとやさしい。春子さん、『夢を叶えようと努力しているヒト』を応援するヒトってだれだと思いますか?」
ワシはいったいだれなのか見当がつかなかった。そうしたらN先生はこう言われた。
「それはね、『すでに夢を叶えたヒト』なんですよ。そういうヒトたちは『これから夢を叶えようとがんばっているヒト』を応援してくれるんだよ。そしていつも『応援したくなるヒト』を探しているんだよ」
そのことばを聞いたときは、いやあ、そんなだれかに頼るなんてどうなのかなあ?って思っていた。
しかしいまは、ああそういうこともありかもねと感じる。頼る頼らないじゃなくて、手を差し伸べてくれるヒトがいればすなおに応じればいい。
応援でうれしいのはことばだなあ。今日もうれしいことばをいただいた。真心のこもったことばをもらうと一番力になるねえ。
そしてそのエネルギーをピアノに注ぐんだ。