いままでさんざん「もの忘れがヒドすぎる」とグチりまくってきたけれども、ここにきてようやくそのグチを手放せるようになった。
いっちゃんさいしょのきっかけは、10年ほど前、コンビニのパートで先輩だったパートさんに「そんなに忘れるのはオカしい」と言われたことだった。
そのときは自分でもやっぱりヘンだと思っていた。なにせ仕事の説明をていねいにしてもらっても片っぱしから忘れていってなにも記憶に残らない。メモをとるのも追いつかない。あわててICレコーダーを買って丸1日録音し、それを文字起こしして備忘録を作って仕事した。
それが48才のときだった。それ以前はごく当たり前になんでも覚えていられた。そもそもなにかを覚えられなくて困ったことがなかったのだ。
けれども48才以降は、ずっともの忘れがヒドいということで悩んできた。とくに仕事が覚えられないのは深刻だった。去年に勤めていたパートは「あまりにも仕事が覚えられない」ということでとうとうクビになった。
こういった「仕事が覚えられない」というコトで、ワシは「コレは異常だ」と自分で決めつけていたが、しかし覚えていられることもあると気がついたのだ。これもだれかに言ってもらわなかったら、自分ではわからなかったね。
前々回のピアノレッスンで、先生が「春子さんのレッスンしていて、トシ取ってる感じなんてぜんぜんしません」と言われた。
それを聞いたとき、にわかには信じられなかった。その疑り深い態度が先生に伝わってしまったのだろうか? 先生はそのあとでわざわざ「生徒にお世辞を言う必要はありませんので。本当にそう思います」と付け加えてくれた。
そこまで言われたら、さすがに真剣に考え直したほうがいいと思いはじめた。そしてピアノに関する記憶を冷静にたどると、いや、べつに音楽に関する限り脳ミソはかなり正常に作動しているとわかってきた。
どえらいミスタッチをするし、暗譜にも長時間を要するが、けれどもハノンを移調して弾くといったことはゆっくりなら問題ない。楽譜を読むことにも慣れてきた。先生の指示にもわりあいスムーズに対応できる。
振りかえってみると、1年前にレッスンを再開したころに比べると、全般的にちゃんと向上している。もちろん、それはひとえに先生のご指導がすばらしいからにちがいない。それはそうなんだが、そのご指導にほんの少しは応えられる部分がある。
ホラ、「ある」よね。ちゃんと「ある」よね。いままで「ないない」「デキない」「あれがダメ」「これもダメ」って自分にダメ出しばっかりしてきたけど、いやデキることもあるじゃないか。
ちょっと比べてみよう。
1.仕事はデキないけれども、ピアノがちょっと弾ける自分
2.仕事がちゃんとデキるけれども、ピアノはぜんぜん弾けない自分
さあて、どっちの自分がいいかな? どっち選んでもいいんだよーっていったら、それはもう「1」を選ぶじゃん! 決まってるよね?
そうそう、つまり仕事がデキないことなんてたいしたことじゃないんだよ。
いつか寿命が尽きるとき、ワシはどう思う?
キラいな仕事がんばってきて、ああいい人生だったって思うだろうか?
それとも、好きな音楽に没頭できて悔いはないよと満足するだろうか?
答えは決まっているよね。
▼バッハ:シンフォニアは第2番をやっている。
▼先生「きっとわかっていると思いますが、もう少しこの音を大切に」(19小節目の3拍目)
先生の「わかっていると思いますが」のひとことがとてもうれしかった。そう、この音がとても好きだから、特別な思いを込めて弾きたかった。うまく反映できなかったけれど、その気もちはわかってもらえていると思う。
ほんのちょっとずつだけれど、自分で「こう弾いたらとてもきれいになるな」とか、「ここに頂点を持っていきたいから、このあたりはもっと控えめにしておこう」とか、あれこれ考えていることが先生に伝わるようになってきて楽しい。
楽しいもんだから、よし、もっとうつくしく奏でられるようになりたいなあと、つい思ってしまうよ。
そんなことばかりをいつも考えていたい。そういう人生であってほしい。