3度目の「眠れる美女」が教えてくれたこと

私は「そうだ、男を注文しよう」と思ったはずなのに、このところ奇妙な出会いがつづいている。男ではない。若い女性なのだ。いや女性というよりむしろ少女といったほうがいい。

推定15歳と18歳の少女たちがどういうわけか私の前に現れた。いったいなぜそんないきさつになったのかはバッサリ割愛させてもらうが、現実にどーんと目の前に出現した。そして彼女たちのはちきれんばかりの若さにたじろいだ。とくにその肌のうつくしさに息を呑んだ。

心理学セミナーで二十代三十代の女性は見慣れているけれど、十代の女の子はね、間近で見るのははじめてかもしれない。まだ少女の面影を宿している18ぐらいの女の子と出会ったあとは、ああまるで陶器のようにつややかな肌だったなあとため息をついていた。

で、やにわに思い出した小説があった。若い女性の肌といえばあの小説にちがいない。それは川端康成の「眠れる美女」である。


すでに男でなくなった有閑老人限定の「秘密くらぶ」の会員となった老人が、海辺の宿の一室で、意識がなく眠らされた裸形の若い娘の傍らで一夜を過ごす物語。老いを自覚した男が、逸楽の館での「眠れる美女」のみずみずしい肉体を仔細に観察しながら、過去の恋人や自分の娘、死んだ母の断想や様々な妄念、夢想を去来させるエロティシズムとデカダンスが描かれている。――Wikipedia

この小説を読むのは3度目だ。1度目は高校3年のとき、なんのことかさっぱりわからなかった。つぎに読んだのはいまから4年半ほど前、妹の勧めだった。しかしそのときもいったいなにがいいんだかまたも不明だった。

けれども今日は、まるで雷に打たれたかのように、ああこれはもう「眠れる美女」に答えが書いてあるにちがいないと確信してすぐにアマゾンでKindle版を購入した。

そうしたら恐ろしいほど的中してしまった。一言一句あまさずすべてが私のために書かれていた。むさぼるように小説を読んだのは生まれてはじめてだった。こんなことってあるんだね。


そしてはっきりと悟らされた。なによりもまず、私は「老いた」ということだ。主人公の江口老人は私そのものだった。

さらに私が渇望しているものは、男でもなく少女でもなく、じつは「いのち」だとわかった。「いのち」に触れたいのである。「いのち」の手ごたえが欲しいのだ。「老い」ゆえに「生への執着」が増しているのだった。

「眠れる美女」を読み、その後ようやく「自分が老いた」という事実を受け入れることができた。それは悪い感触ではなかった。なるほど、あきらめるとはこういうことか、そうか、達観するとはこれなのだと思い知らされた。

むせかえるような官能の世界にも圧倒された。それは音楽にも存在するね。これをピアノで表現したいと思ったよ。あんなふうに豊潤にしたたるかのように、たぶんきっとツェルニーでも弾けるような気がするよ。

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