「あきらめること」が好きになってきた。あーそんなことにはこだわらないでおこうとあっさりあきらめる。
手が小さいことを悩んでいたけれども、そういえばそのこともすでにあきらめていた。昨日ピアノの先生が「この和音(ドミ♭ド)も届かないんですか?」とちょっと考えておられたのだが、私にとってはもう当たり前であきらめていたからけっこうシレシレとしていた。
じゃあ音階のカデンツのときにどうしていたかというと、ドミ♭ソドとかの和音は、からだ全体をぐいっと左に傾けて、右手首を斜めにしてちょこっと鍵盤にひっかけて小さく音を出していた。最後の和音1個ゆっくりだったらこの方法で弾ける。
でも、よく考えたらそれもムリしないでいいかもね。なんとなくカデンツぐらいは弾けないとダメだと思っていたけど、そんな決まりはないね。どう弾くかは自分が決めたらいい。そもそも生まれつきこのサイズなんだから届かない音がたくさんあって当然だ。
妹なんて私よりもっと小さい手なんだよね。ほんとちっちゃい手。たぶん彼女はオクターブもぜんぜん届かないと思う。ピアノ弾かないからべつに関係ないんだけど。いやでも、そういう手でもピアノ弾いてかまわない。弾けない音は省いちゃっていいよねえ。
「努力する」とか「がんばる」とか一見いいことのように思えるのだが、じつはそこには落とし穴がある。「ありのままの自分」を否定していて、なんかがんばったらいまよりよくなるんじゃないか? いまより幸せになるんじゃないか?って考えてたらヤバい。
いまの自分がダメだから→がんばる→いずれ破綻する。「自分ダメじゃん」をエネルギーにしてやってるとしんどい。そのうち燃え尽きる。なので、いまの自分で十分OK→好きこのんでがんばるというのが正しいあり方。
でもねえ、その「いまの自分で十分OK、いますごく幸せ」というのがよくわかってくると、だったらぜんぜんがんばらない、てか、がんばる気が起こらないとなるヒトもいる。これはこれでなにも問題ない。だっていますでにもう幸せなんだもんね。
で、じつは私がいま、ここにハマっているんだなあとうすうす気づいている。きっといまのままで十分楽しいんだよね。
だから、べつにこれ以上なにかがんばろうという気が起こらない。いつまでたってもカウンセリングの勉強する気が出てこないのはこういう理屈なのだ。まあ、だったらカウンセラーになるのをあきらめたらいいだけだ。届かない和音をムリして弾かないでいいのと同じで、やりたくない勉強はやらないでいい。
カウンセラーという職業に憧れていたけれども、よくよく考えてみたらそれはいま行っているパートの仕事を否定していることになる。なんとなくいまのパートじゃ「ミ♭ソドの和音」でごまかしていると思っていた。カウンセラーになったら「ドミ♭ソドの和音」をバーンと弾けると思っていた。
でもさ、そもそもあんた「ドミ♭ソド」が弾ける手の大きさなん?
そういう話なんだなあってことにも気がついてきた。べつにね、ムリなく届く「ミ♭ソド」でも間に合うんだよね。その音でも同じ曲に聞こえるし。いまのパートでも生きていけるし。パート先は私があまりにも仕事できないからイヤがってるけど人手不足だしね。昨今は使えないババアでもいないよりマシ。
じゃあ某芸術大学の学費はどーすんの?
それは「必要なことしか起こらない」ルールにしたがうと、「必要であればどこかから降って湧いてくる」はずなのだ。
これは丸々信じていてぜんぜん悩んでいない。とりあえずレッスンに行くだけ。あ、もうちょっと「がんばる」のやめよう。弾きたくない和音弾かないとか、レガートむりすんのとかやめる方向で。