ホンネ全開|こんなピアノの先生に困っていたのだが

いやまあ、一生だれにも言わないという選択もある。そうしようかなあとも思っていたのだが、ええと、この記事のいっちゃん最後のことを言いたくなった。結論はわりかしソコ。で、ソコに至るまでにもっとも重要なのが「いまのピアノの先生」である。

「いま」と、そこから導き出された「結論」を言いたいのだが、そうすると「過去」も出さないと、話のスジが通らなくてね。ああなんか、まわりくどいのう。それだけ迷いがあった。でも、あえて話す。

どういうことかというと、いまのピアノの先生があまりにもすばらしすぎて、すると、じゃあ小学生のころ習っていたあのピアノの先生はなんだったんだろう?!

レッスンのたびにひどく怒られたねえ。先生の前で弾くとね、とちゅうでいきなり「ちがうっ!」って大声で言われる。まあ、ねえ、「ちがうっ!」ってしょっちゅう言われたね。でもさ、なにがどうちがうのかおっしゃらないんだよねえ。お手本演奏もあまり記憶にないなあ。

「ちがう!」って怒られて、あわてて、こうかな?ああかな?ってモタモタ弾き直すんだけど、また「ちがうっ!」と言われる。だから、子どもなりに「どうしたらいいのかなあ?」ってよく思ってたよ。でも、どうしたらいいか自分ではわからなくて、そうだなあ、なんか当時はいつもモヤがかかったみたいだったな。


そのむかしの先生はね、たいそう情熱的なかたで、これまた大声で曲を歌ってはくれた。「リヤリヤリヤリヤ~ッ!」と声を張り上げて、両手も振り回して、どうかすると足もダンダン踏み鳴らして拍子を取ったりした。そうそう、きっと感覚的なかただったんだね。「説明」とか「解説」とか、ない。歌ってるか怒ってるかだった。

と、ここまで書いたら、まあ音楽家なので、そうなっちゃうヒトもありっちゃありだなあと、いま納得した。しかも、その先生の生徒さんには優秀なヒトが何人もいたので、才能のある子どもはちゃんと伸びている。鈍才の私が落ちこぼれていただけである。

しかし、その無能なガキンチョがさらに半世紀経て老いぼれ果てて、ふつうに考えたらどうしようもないはずなのに、いまのピアノの先生は「どうにかしよう」ときわめて明解に根気よくご指導してくださる。

おこがましいのだが、いまの先生のなにがすごいって「音楽の言語化」がすごいのだよ。たとえ話が秀逸なのだ。そして、生徒がただ単に弾けるようになるだけではなく、「音楽の本質」がちゃんと「腑に落ちる」ところまで見越して、そういうところに着地できるように指導される。

だから、おそらくカウンセリングに類似している。カウンセリングは「本来の自分を生きられる」ようになるまで寄り添う。とりあえず「目の前の問題をなんとかする」んじゃなくて、「このヒトが、この世に生を受けたのはなにゆえだろうか?」という視点を、カウンセラーは持っている。

いまのピアノの先生にも、そんなニュアンスを感じる。すみません、エラそうなんだけど。


で、むかしの先生はといえば、なるほど、わかる子どもにはわかったのかもしれない。ああいうご指導でも、才能があれば感得できたかもしれない。いや、それで伸びないのならたいしたことなくて、そういう子はさっさと見切りをつけたほうがいいのだろう。むしろ「ふるいにかける」という意味もあったのだ。

私はダメだった。なにもわからなかった。

それでね、このごろよく思うんだけど、私はあのむかしの先生は合わなかったんだよね、たぶん。けれども、いまの先生は合うんだよ。私が受けたいレッスンの200%を満たしてくれている。毎回あまりにもみごとなレッスンで感動するんだよ。

ということは、だ。あの13才のときに、レッスンをやめて正解だったんだよ。親が貧乏だったから、むかしの先生をやめることになったのだが、いやあ、それでよかった。

そして、こうも思う。親ってね、本当に深い部分では「どうしたら子どもがしあわせになれるか」を悟っていたんじゃないかなあって。

おもて向きは「ゼニないからレッスンやめじゃ」って宣言されたけど、もしかすると親の魂レベルではね、「ああ、この子にはこの先生は合わないなあ。いったんやめさせよう。そしたら、44年後にあの先生に出会うことになってるからだいじょうぶ」ってちゃーんとわかっていたのかもしれない。

とまあ、いまの私はこの説を固く信じているのだよ。

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