小さな炎を配って歩くヒト|ビリーフリセット・リーダーズ講座 第6講 2日目 その2

だれも座っていないイスなのに、カウンセラーが誘導してくれると、そこへ母ちゃんが出てくる。父ちゃんもあらわれる。そして「やる気のない自分」はといえば、とうとう猫に変わってしまった。

なんでそんなのが見えてくるのか? それは、心理学の原則「投影」がはたらいているからだ。私自身の「心の内面」が「外側の世界」に反映されて見えているのだ。

だから、そこに見えている「母ちゃん」はリアルの母ではなく、「私が勝手に解釈して、心の中に住まわせている母ちゃん」である。「父ちゃん」もまた、「子どものころに『こういうヒトだ』と思い込んでしまった父ちゃん」である。

猫はいいなあ、毎日ごろにゃんとしているだけでエサがもらえる、かわいがってもらえる。そういう「ぶらぶらしていてメシが食える象徴」が、私にとって「猫」だったから、猫になってしまった。猫、働かなくていいもんね。


しかし、これらすべては「私の脳ミソにある」だけで、実在していない。「投影」で「外に見えるように感じる」だけ。

「投影」については数年前からずいぶん勉強してきたように思っていたが、いまになるとまだぜんぜんわかっていなかった。エンプティ・チェアでこんなに幻があらわれてきて、はじめてその強力さにちょっと気がついた。たぶんまだほんの「ちょっと」だ。

結局、どんなモノにしても「外界を本当に客観的に見ることはできない」んだなあと思う。ぜんぶ「私というフィルター」がかかっている。まあ、だから私がフィルターを変えれば、世界の見えかたも変わるわけだ。

こんな具合に腑に落ちてくると、じゃあ「私だからこそ見える世界」があるんだと気づく。そう思うと、ピアノを弾く意味が見いだせる。なにもりっぱな演奏をめざさなくていい。「私に見える世界はこんなんです」「私が差し出せるモノはこれです」ってピアノを弾いたらいい。


私はよく「本来の自分」ということばを無自覚に使っていたが、あやさん(大塚あやこさん)は「魂・いのち・仏性」のことであるという。

「魂・いのち・仏性」とは → 生まれながらに、あるいは生まれる前から存在するその人の本質。源(ソース)から来るいのち。(オリジナル)
対して「自我・エゴ」とは → 生まれ育ちの中で作ってきた生存戦略と社会的学習、刷り込みの集積。自分を守る鎧。(メイド イン 社会)

――「ビリーフリセット・リーダーズ講座」のテキストより

この構造に気がつかないと、「魂」が「自我」の皮着て歩いているだけで終わってしまうかもしれない。けれども、ビリーフ(=自我)を脱いで「魂」で生きるのが正しい。見つめる意識を育てて、ビリーフをこつこつリセットしていくと、自我と魂の見分けがつくようになり、「魂」で生きられるようになる。

そういうお話をうかがったあと、みんなでグループワークを行なった。まず数名で輪になって座る。しばらく深呼吸したのち、自分の輪郭よりひと回り外に「光の領域」があると感じてみる。そして、その光の領域が相手のヒトの輪郭と重なるイメージを思い浮かべ、相手のエネルギーを感じ取る。

ひとりずつそのワークをやってみて、めいめいそのヒトに自分がどのように感じたかを伝える。私は、みんなから「輪郭がはっきりしている」とか「べっこう飴みたい」「コーヒー色の巨大な石」「上を見上げている」「森の中の小動物」などと言われた。わりかし硬いイメージが多いね。あ、まだ鎧を着込んでいるのかな?


私は、あるひとりのヒトから伝わってくるイメージに感銘を受けた。そのヒトからは「物語」が伝わってきた。そのヒトは手の中に「火元」を持っていた。夕暮れ時にそのヒトは一軒一軒の家をおとずれ、扉をたたき、その火元から小さな炎を分けていた。

そのヒトは黙々と火を配って歩く。そのヒトが火を分けると、その家にポッと灯りがともる。徐々に太陽が傾いてそのヒトの影はだんだん長く伸びるのだが、ポッと灯りのともる家が増える。小さな炎がぽつぽつと少しずつ広がっていく。

まだ若い彼女から、そんな物語がふっと伝わってきた。

そういうのが、そうだ、「使命」なのかもしれない。
「魂」で生きるということは、そんな使命を果たすことなんだと思う。

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