「欲ばりばあさん」という生きかたをもっと極める

「ほんとうにそれでいいの?」
「ほんとうはなにが好き?」
「ほんとうはどうしたい?」

心理の勉強していたら、そんなんばっかり自分に問いかけることになる。

ま、私が「至福のよろこび」に浸れるのは「山」と決まっているから、山以外のことってじつはかなり「下のほう」に行ってしまう。ピアノはだいぶん上昇してきたけど、それでも「山 対 ピアノ」=「5 対 1」ぐらいかねえ。

ピアノは自由に弾けるもんじゃないからね。思い通りならないのが当たり前。ピアノ弾いて「至福」を味わうなんて、相当エラいカン違いをしないといけない。しかし、レッスンでいろいろ教われば教わるほど耳だけはマシになってきて、オノレの演奏のマズさがいっそうよくわかるようになる。

すると、ピアノはおもしろいし楽しいものの、けど非常にむずかしいよね。とくに「聴き手」を意識するとめちゃくそたいへんだ。


なので、「ほんとうはどうしたい?」ってズイッと迫られると、「いやあ、車中泊放浪っすねえ。夏は北海道。北海道なら観光地でもOK。ちょいとトレーニングして低山徘徊。あと温泉三昧」ってのがとっさに出る。それこそが自分のホンネなんだと、けっこう長いあいだ思い込んでいた。

しかし、だ。その「ほんとうはどうしたい?」の問いの行き着く先は、じつは「なにをするために生まれてきたの?」になる。

「あなたは、なにを為すためにこの世に生を受けたのか?」

そう問われると、いつも困ってた。だって、私のホンネは「働かずにぶらぶら、車中泊放浪」だから、なんかさあ、後ろめたくなるじゃん? それに、ほんとのほんとに、私は「ただぶらぶらする」ために生まれてきたのか?というと、う~ん、それもね、ちょっとちがうかねえ。

なんとなくだけどさ、「いろんなことに期待しなくなって、めんどくさくなって」→「もう、ぶらぶらでいいや」ってのが実体かもしれないと思いはじめた。


「牛にひかれて善光寺参り」ということばがある。欲深い老婆が牛を追いかけていたら、さいごは善光寺に至ったということわざだ。河合隼雄(臨床心理学)がどこかで書いていたが、あるクライアントが嫁を気に入らないと、河合隼雄にくどくど文句を言っていたそうだ。

河合隼雄はそのクライアントに「牛にひかれて善光寺参りというでしょう。おたくのお嫁さんはその『牛』です」と告げた。若くて元気な嫁が気に食わないということは、おそらく「老い」と向き合う転機が訪れたのだろう。その後、クライアントは信仰を持つような方向に向かっていったそうだ。

この河合隼雄の話のおかげで「牛にひかれて善光寺参り」が大好きになった。さいしょは「欲」でいいところが気に入っている。べつに高邁な志とか掲げないでいいんだよね。

「欲ばりばあさん」でちっともかまわない。カネ目当てでもいい。欲得にまみれてていい。ええかっこしいでもいい。低俗でもいい。しょーもなくていい。欲しかったらなんでもいい。


なので、このごろ私にとって「某芸術大学」は、ははあ、この「牛」かもしれんと思っている。私が大学に行きたいいっちゃんの理由は「高卒がイヤ」ってヤツなんだけど、そのくだらなさに自分でもほとほとあきれていたのだが、まあ、これきっと「牛」なんだよね。

とりあえず「牛」追っかけてたらいいんだ。現に「牛、追っかける」(=ピアノやる)のに一所懸命で、ま、動いているからね。ぶらぶらしてるヒマないからね。

そしてピアノの先生は、以前「わざわざ音大に行かなくても」って意味合いのことを言われていたのに、いまは「牛がいいのなら、牛つかまえられるようにしてあげます」としてくれているもんね。「牛」が本質的ではないとおわかりでも。

でもきっと、「牛」は善光寺に通じるんだ。だったら、もっと牛追いに精を出したらいいんだね。よりいっそう「欲ばりばあさん」になるべきだ。

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