今日は、カウンセリングの自主トレーニングに出かけた。もともとパートのシフトが入っていたのだが、Sさんから熱心なお誘いがあったので、これはご縁だなと感じて、事前にシフト交替をお願いしておいた。
Sさんは、とても雰囲気のよい会場を準備しておいてくれた。シャビーシックですてきな空間にどぎまぎしたけど、せっかく練習するからにはリラックスするように心掛けた。どんなふうにやるのか打ち合わせしていなかったが、Sさんがカウンセラー役を申し出てくれたので、私はクライアントになった。
カウンセラー役は超苦手なので助かった。とはいえ、クライアントになってもカウンセラー役のひとには気を使いがちだ。まあ、これって自己肯定感が低いからだよね。どーんと自信があれば、素の自分をさらけだしても平気なはず。
しかし、Sさんのカウンセリングはみごとだった。「カウンセラーとしての気配」を消すのがとてもうまかった。なので、今回もいろんなイメージが見えてきて変容していった。
先日大塚あやこさんの個人コンサルのとき、私はまだ「子ども」のポジションしか知らなくて、他人と「対等な関係」がわからないと気づいた。それで、今日はそれをテーマとしてエンプティチェアの技法でセッションしてもらった。
で、いまここでちょっと困った。セッションの内容をあらかた忘れているのだ。ほとんど思い出せない。だからいま、ブログに書けない。
けれども、ひとつだけ鮮明に覚えていることがある。それは、音楽が聞こえたことだ。カウンセリングセッション中に音楽が聞こえたのははじめてだった。
「対等がわかっているひと」のイスに座ってしばらくしたとき、それは聞こえはじめた。それは、リストのロ短調ソナタのいちばん最後の部分だった。
▼最後、754小節目、ふたつめの和音が遠くから聞こえてきた。
私は、ただその音に耳を傾けていた。Sさんが「どんな音楽が聞こえますか?」としずかに尋ねてくれたので、「涅槃に導かれるような音楽です」と答えた。
いちばん最後の一音がごくみじかく響いた瞬間、涙があふれてきた。ああ、解放されたという思いがこみ上げてきた。ほんと、解放だった。
あまりにもその印象が強すぎて、たぶんほかのことは忘れてしまったんだと思う。
あともうひとつ、そこまでの演奏を私のなかに刻み込んでくれたピアニストって、ああその生涯の重みって計り知れないなあと思った。
そして、だれもがそういう人生の重みをおなじく持っている。ということが、最後の音でわからされた。