ヨソの惑星でひとりでいても、やりたいことかどうか?

もうずいぶん前のことだ。たぶん10年以上前かな。もっとずっと前か。ときどきこう思った。

もし仮に、自分がちっせえ惑星にたったひとりで住んでいたとする。そしたら、どんなふうに暮らすか?

まず思い浮かんだのは、きっと手ごろな山を見つけて毎日登るだろうということだ。ちゃちい惑星でも低山ぐらいはあるにちがいない。おにぎりを持ってそこを登る。頂上で敷き物を広げてにぎりめし食って、それから昼寝をして、目が覚めたらぽてぽて降りてくる。

天気がよければ、問答無用で登る。私がやることはそれだけだ。

で、そのついでにいつもちょっとこう思った。

ピアノ、弾くかな?


そのあとに、決まってこういう結論に達した。

いや、弾かないな。聴いてくれるひとがいないなら弾かない。

ちっせえ惑星というのは、あの「星の王子さま」(サン=テグジュペリ)の表紙から連想したんだろう。ときどき私は「惑星ひとり暮らし」を仮定しては、「ふむ、手ごろな山に毎日登るだろう。でもピアノは弾かないな」と二点セットで納得していた。

この二者択一にする必要性はまったくないのだが、私はいつも「山かピアノか」をめぐってユラユラしており、そういえばずっと以前、N本さんのカウンセリングをはじめて受けたときも、「このまま山だけで生きるのか、それともピアノのレッスンを再開するか、どうしましょう?」なんて尋ねている。


当時はまだカウンセリングのことをろくすっぽ知らなかったから、うっかり私は「N本さんがご覧になって、私はどっちが向いているように見えますか?」などという奇問まで発した。そしたらN本さん「いやあー、それはね、ぼくらからは言えないんですよー」とかなりトーンを変えて答えられた。

でも、私の心はすでに答えを出している。
ヨソの惑星でひとりでいてたら、ピアノ弾かない、山だけ登っているって。

昨日の記事「確実にしあわせになれる方法を知っているというのに、なぜほかのことをやる?」に対して、堀江さなえさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)がコメントをくださった。

さえさん(堀江さなえさん)「やり残したところを、見に行くのが手っ取り早い気がするけどねえ
弔い合戦(マイナスからゼロ)やってると、幸せにはならない気がするの」


鈍い私はなんのことかさっぱりわからなかった。てか、そう、「見たくない部分」は「見えない」。本人には見えないよ。

私「『やり残したところ』ってなんでしょうか? あと『弔い合戦』という意味がわかりません」

さえさん「『やり残したところ』はピアノだってブログに書いてあるよ、やり残して何か心残りがあるってことならば、その心残りを成仏させるのが先決なのでは?という感じ
弔い合戦は、ピアノだよね
なにかやり残しがあるんだよね、ピアノの穴をピアノで埋めようとしている気がするけど、それはピアノで埋めるのが合ってるかな?って感じたのよね」

ここまで解き明かしてもらったら、さすがの私もあっ!と気がついた。


「ピアノの穴をピアノで埋めようとしている」ということばで、バチンと火花が散った。たしかに「穴」だと愕然とした。いつもの穴だよ。いつもおなじみの穴がぽっかりと開いていた。

やれやれ。穴といえば「親」だ。ふう。いやもう穴がどーのこーのじゃなくても、私の行動の大半が「親基準」だから、なにか「こだわり」であったり「硬い感触」だったり「屈託」があれば、それはもうすべて「親」由来なのである。

なさけないけれど、「親から認められたい」とか「親を見返したい」「親に復讐したい」という動機しか持ち合わせていない。なので結局、いまピアノを弾いている目的は「親(心のなかに内在する親)に認めてもらいたい」ということだと、ようやくわかった。

だからこそ、「13才のつづきがやりたい」と思ってしまうんだよねえ。

しかしわかってしまったら、もういらない。あ、親はもう関係ないんだな、そうか、そういうことか。


そのとき、「13才の自分」がふっと見えた。しんどそうな表情で肩を落としていた。それを見て、ああ、「ピアノの壁」がしんどかったねえと思い出した。小学5年生ぐらいから「壁」を感じていた。自分にはとうてい乗り越えられないような「壁」がそびえ立っていた。

そうしたら、じつのところ親は、お金がないからピアノをやめさせたのではなく、「いや、この子にはとてもムリそうだから、早いうちにやめさせよう。そのほうがこの子のためになる」と考えてくれて苦渋の決断をしたのではないかと思えてきた。

それは、まことに正しいねえ。

なんというか、ピアノであれ勉強であれ、生まれつき定まっている限界があって、もうそこでアタマ打ちなんだよねえ。小学生のときといまを比べて、ああやっぱりそうだなあとつくづく思う。私はすべてにおいて「ちょぼちょぼ」なんだよね。

でも、その「ちょぼちょぼ」のままで、まったくかまわないのだ。


それは「山」が教えてくれた。全国数百山をひとりで登り、山の塾で岩登りや雪山も経験し、やれ八泊九日のテント泊縦走だとか、正月の北アルプスでマイナス20度だの派手にいろいろやってきたが、「自分に本当に合っている山」は「草原のある山」というところに落ち着いた。

さんざん登ってわかったけれども、ごく単純に「原っぱがあれば、それで極楽」とわかったのだ。ロープウェイでズルをしてもかまわない。べつに登らずとも河川敷の芝生に寝っころがって山並みを仰いでいるだけでもいい。要は、背の低い草っぱらで見通しがよければしあわせなんだとわかった。

だから、ピアノももっと背丈が低くていいんだなあと、やっと思えた。

さえさんがこう書いてくださった。「山が春子ちゃんの本来ならば、山だろうがピアノだろうが、カウンセリングだろうが、体現できると思う
それは、行くんじゃなくて、春子ちゃんの内側から出てくるものなんじゃないかしら」

そうだね。その通りだねえ。
そう、やっぱり「惑星でひとりでいても、やりたいことかどうか」なんだろうねえ。

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