そもそも「自分にとって、あまりにも当たり前すぎること」って、わざわざ口に出さないでしょ?
表立ってひとに言いたいことというのは、自分の内々に収めておけないなにかとか、収めておくにはもったいないとか、どうしてもあふれてくるとか、まあそういうものじゃないか。
というようなのに当てはまるヤツをだいたいこのブログに書いているものの、そもそも(そもそもが多いな)私にとって「山が→至福」ということは当たり前すぎて、そんなにぱあぱあひとに言う必要性はないのだ。
まあ、たまに書いてるけど。だれかに訊かれたら言うけど。山が好きなひとがいたら、もちろん「さいきんどこ登りました?」ってすかさず質問するけど。
私は34才(1996年)のときに、第1山目である稲荷山(いなりやま/233m/京都府)に登り、うわっ、世の中にこれほどしあわせになれる場所があったのか、こんなに身体を動かす愉悦に浸れる方法があったのかと雷に打たれたように茫然としたが、その感動がね、どの山この山登っても押し寄せてくるから、何百山もやってるとわりと当たり前になっちまった。
ええと、感動はつどあらたに湧き起こる。しかし、「山に登ると→至福のよろこびに浸れる」ということが「当たり前の法則」になったのだ。
つまり、だれかから「しあわせはどこにある?」と問われれば、即「あそこだっ!」と私は手近の山を指差すのだ。
真夜中に叩き起こされて「おまえ、何者?」と訊かれれば、寝ぼけながら「へえ、山ヤです」と私は答えるのだ。
けれども、その「何者?→山ヤ」が怪しくなってきたのが、十年ぐらい前かなあ。当時は、ピアニストB氏のCDにはまっちゃって、寝ても覚めてもアタマで鳴ってて、コンビニのレジ打ってても突如バーンと鳴り出して、それに感動して涙が出てきて、「っらっしぇえませえ」と笑顔を作りつつ泣いていたりした。
で、夜中にふとんのうえで、こうなると「山ヤです」と即答でけへんな、どないしてもB氏が混じりよるな、困ったなとか思案していた。
しかし、そのころ私は妹に「でも、山のほうが好きやで。白山(はくさん/標高2,702m/石川県・岐阜県)のほうがB氏より百倍ええと思う」とも宣言していた。
白山はお花畑が多すぎるねん。見回す限りのお花畑とかがゴロゴロなんぼでもあって、ひとも北アルプスよりうんと少ないし、ほんっとうに雲上の別天地で、あれはな、ヘタしたらベートーベンも負けるで。
結局なんのことかというと、まあわざわざひとに言わなくても私にとって「至福は『山』に決まっとるやろ」ってことである。そして、あまりにも「山と自分で完結した至福」なので、たとえば山ブログを書こうかとも思いつかないのだ。いらへんねん。
なので、こないだの記事「確実にしあわせになれる方法を知っているというのに、なぜほかのことをやる?」に対して、Facebookでコメントやメッセージをいただき、そこにみなさんが「ぜひ山に登ってください」と書いてくれたのを見て、私は「お、おう、それはまあ、やぶさかではないよ」とへどもどした。
まあもう、「我が身にように当たり前のしあわせ」なので、戻りたいときはいつでも戻れる。てか、どの山での感動もたちどころによみがえるので、もうすでに手中にあってわざわざ訪ねるまでもないという感覚である。
ただし、みなさんの感じたことはその通りだなあとも思った。
みんなはどう感じたか?
それは、「本来の春子さんが生きる世界は『山』ですよね。『ピアノ』じゃないよね」ということだ。
うん、そうだね。やっぱり「山」が抜きん出ている。
ピアノにはね、「作為」がある。さらにもっと「作為」の分量が増えるのがカウンセリングだ。カウンセラーになろうとすることは、もっと不純になる。
べつに純粋じゃなくてもいいけど、作為が多くなればなるほど、自分がしんどいんだよね。「努力」とか持ち出さないといけないから。その点、純度100パーセントの「山」だったら、努力はゼロでいい。本人はヘラヘラしてるだけ。なんの努力も結果もいらない。
「山」の最大メリットかつ最大デメリットは、「ひとがいっさい不要」というところだ。
そういうところだよね、というのは私もよく知っている。
その「山と自分だけの差し向かいのしあわせ」を熟知しているひとは「単独行(たんどくこう)」を好むようになる。単独行者は、魂を持っていかれたかのように視点の定まらない目をして山のなかをひとりでさまよっている。
ああ、またあんなふうにさまようのか。それは確実にしあわせになれるのだけどね。また山に隠遁しようかな。
そうすると、そう、ひとが不要になる。ふたたび「だれにも期待しません。みなさん、さようなら」をやりたくなる。
おっとっと。
私と現世とをかろうじてつなぎとめてくれるのは、じつはピアノかもしれない。