今日は、かなり「底」のほうに沈んでいる。
「やらないといけないことに手を付けられなくて、ただぼーっとしている」ことは、しょっちゅうあるのだが、本日午後3時にピアノのレッスンが終わり、帰宅したのが午後9時半で、え? この6時間半はいったいなにに消えたんだろう?
クルマのなかにいたのはたしかで、ものすごくだるくて長時間寝てたりしていたが、あとはなにしとったんか記憶がない。
でも、こんな状態におちいっている理由はおおよそわかる。
これまで長年「親に認められたい」という動機だけで生きてきたが、いまそれを「本来の自分を生きる」ってのに書き換えようとしていて、その作業がうまくいかなくてめちゃくそしんどいのだ。
だって、なによりも「これまでやってきたこと」をチャラするのがすごくむなしい。59年もねえ。
ときどきふうっと「目を閉じて横たわっている子どもの姿」がよぎる。ああ、その子を見送ってしまうのがつらいなあって思う。たまに、いっそのこと、その子に付いて行こうかな、もう仕事で怒られるのはイヤだし、そっち側に行きたいなと思う。
だいじょうぶ。行ったらダメだとわかっている。行かない。けど、現実はしんどい。
ビリーフリセット認定カウンセラーの内藤たみこさんが、Facebookで紹介していた本「消えたい──虐待された人の生き方から知る心の幸せ」(高橋和巳)を読んだ。
▼ちなみに「消えたい」を検索すると、こんな画面が出た。す、すいません、だいじょうぶっす。こっちにカウンセラーぎょーさんおりますよってに!
さて、本の「消えたい」は、被虐待者について書かれていて、ああ……、なるほど……、そうだったのか……、がけっこう盛りだくさん。すごくヤらしい本。
被虐待者が訴える「私には過去がない」というのにも、うん、そうそう。私も記憶がつながらない。覚えているはずなのに、なにひとつわからない時期が存在する。なにがあったのかもうわからない。
虐待を受けて育つと、人とのつながりを持てないままに時間を過ごすので、意味は積み重ならず、その人の歴史は生まれず、過去は消えていく。
そうだよねえ。私は母から「自分の意志を持つな」と言われつづけてきたから、わりと「自分を消そう」とがんばった。あんまりうまくいかず露呈したままこんなになったけど。
ただ自分を振りかえると、親に対する恨みもすごいんだよね。だから、その後他人が手を差し伸べてくれてもピシャーンとはねのける。なので、わざわざ自分でひととのつながりをブチ切ってきて、そのなれの果てがこんな感じ。
で、被虐待者のお母さんがじつは軽度の知的障害だったというケースがいくつかあって、それはなぜか腑に落ちた。私の母もなにかの障害かもねーと納得した。母自身では対応できない事情があったにちがいない。手が付けられないほど荒れ狂ってたもんな、母ちゃん。
あと、「味がわからない」という被虐待者。私もそうだった。なんの味の区別もできず、いまもかなりにぶい。ごはんの食べ忘れも多い。食べたかどうか忘れる。
どうも私が感じている世界は、もしかするとふつうのひととはちがうのかもしれない。
目下ひじょうに困っているのは、パートでしょっちゅう怒られること。もうそういう定位置になりつつあって限界超えそう。接客の仕事はマジあかんと思う。
さいわいピアノのレッスンはだいじょうぶだった。寛容な先生でありがたい。
これでピアノも×だったらほんま消えそう。
いや、パートも×、ピアノも×、どうかしたら山も×、とかいう地獄も体験してみよっか。もしかすると意外な抜け道があらわれるかも。