私にとって「ピアノはニセモノ」なんだろうか?

「本来の自分」がほんとうに欲しいモノはなんだろう?というと、私の場合「完璧に愛されたい」というモノだ。完全無欠の愛が欲しい。で、自分を完璧に愛してくれるモノはすでに見つかっていて、それはじつは「お日さま」なのだ。

陽の光をさんさんと浴びていると、まるで愛のシャワーを浴びているかのようでいっちゃんしあわせになれる。ってなことは二十年ぐらい前から気がついていた。太陽が出ているかどうかで、自分の幸不幸が決まってしまうイキモノなんだと確信していた。

まあ、欲を言えば「お日さま+山」がもっとも望ましいが、いや「お日さま+海」もOK。なんなら「お日さま+近所の河川敷」でも97%ぐらいしあわせになれる。

んで、じつは毎日夕方になるとがっかりしている。お日さんが沈んでしまうからだ。明日はまた出てくれるとわかっていても、ああ見えなくなってしまったと気落ちするのだ。

もうそういう宗教にハマッているからしかたがない。私の前世はきっと古代エジプト人で太陽神ラーをあがめていたんだろう。


堀江さなえさん(ビリーフリセット認定カウンセラー)が、ブログで「ホンモノの願いと、ニセモノの願い」シリーズをいま書いてくれている。

今日掲載の「ニセモノの願いを見破る方法(2)」では、見破る方法のいくつかのうち、つぎの見極め方を紹介している。

●それ、無人島でもやってる?
●毎月1億円口座に入ってきてもそれやる?

うわっ、こりゃわかりやすいねえ。


ええと、もちろん「ひなたぼっこ」はやるよね。てか、毎月1億ならまずキャンピングカーだね! 中古でもいいから即手に入れて即放浪だね。キャンカーで朝を迎えるのが最高じゃん! もちろん無人島をぐるぐる走り回ってるだけでかめへんで。

だけど、ピアノはどうかねえ?

ま、無人島にも置いとくけど、放浪とピアノは両立がむずかしい。どっち削るかといえば、ピアノが脱落しそうだ。レッスンも受けられないし、そういう支えがなくなるとピアノは非常にキビしい。

ということは、だ。私にとって「ピアノはニセモノ」かもしれない。


じつは、「パートとピアノ」ってセットになっている。

「パートがしんどすぎる」→「そのストレスをピアノで解消する」という図式が成り立っている。なので、そもそもパートが消失したならば、ピアノの必要性もなくなりそうだ。

つまり、ピアノって「現実のつらさをまぎらわすための『なぐさみ』」なんだよね。この「なぐさみ」であるという時点で「ニセモノ決定」かね? そうかもしれない。

ただし、「ひなたぼっこのみ」で私はたしかにしあわせになれるのだが、それだけで「完結」してしまうので「ひとが不要」になっちまう。「無人島でもやってる?」という前提にふさわしいものの、私にはそれが「隠遁」であり「ひとから逃げる手段」なのだ。


いまからちょうど6年前、2015年3月18日に根本裕幸さんの個人セッションを受けたとき、私は、親の介護しんどいとか、自己顕示欲失くしたいとか、山登り専念かピアノ習うかどっち?とか、そういうお題を持っていった。

ああ、いっつも「山かピアノか」の二択で迷っている。

その私に根本さんは「あえて試練の道を選ぶこともできますよ。自分の成長のために」と言われた。試練の道とはピアノのことね。そのとき、私はピアノを選べなかった。セッションのときに結論を出せずに帰ってきた。試練なんて課したくなかった。

それから4年後の2019年3月20日、大塚あやこさんの個人セッションを受け、またまたピアノうんぬんを持ち出して、ようやくレッスン再開にこぎつけた。

その時点から2年過ぎたのが「いま」である。いつも春分の日前後にわちゃわちゃやっている。私を愛してくれるお日さんが「ほれ、これからは一日の半分以上照らしたるで」というタイミングで、私はピアノをどうするか、惑うのである。

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