ショボくてチャチい自分を「あきらめる」と、こんなのが出てきた

「欲しいか」「欲しくないのか」をさんざんぐるぐるやってたのが昨日の夜。Eさんが私に「あげます」といってくれたモノについて。

さて、朝起きたら「あ、欲しいな。よし、Eさんに『欲しいです』とラインしよう」と思った。

だのに、夜パートから帰ってきて、とりあえず眠たかったので寝て、そうそう、このごろ眠かったらメシ食わずにまず寝る。で、3時間ほどで目が覚めたら「もうどっちでもいいか」というところに行き着いた。

「なにかモノを増やす」ということは、最終的に「そのモノの行方がどうなるか?」というところまで管理しないといけない。そのことにハタと気づき、うっかり「欲しい」気もちに流されるのもどうだろう?と思ったのだ。


このごろ「自分のキャパのなさ」をすごく意識するようになってきた。私がなんとかコナせる分量というのはひじょうに小さい。よくよく考えると、自分は「1」しかデキないのに平気で「10」をめざしていた。ソレやるから疲弊してしんどくなるんだよねえ。

以前根本裕幸さんがこう言っていた。

「『等身大の自分』と『理想の自分』のあいだにあるギャップが、『自己攻撃』なんですよ」

ほんとほんと。あたしゃ「1」のニンゲンなのに「10」なんて目標を掲げるから、あいだの「9」をメッタ打ちしとったわ。ソレをバンバンやってるだけでも疲れたなあ。


しかし、いまや私は「1」でええねん、もうあきらめたわと、「10」の旗は降ろしたんですぜ、ダンナ。

「1」に戻ってみるとどないだ?

あのねえ、まず、けっこう冷え冷えするわ。
そいから、私ってこーんなにちっせえイキモノだったんだーって、全身の力がドッと抜ける。

あまりのショボさに呆然として、まあ、もう、どうでもよくなる。とりあえず寝よかと思う。「やる気」がタダの一滴も出なくても「ああ、そうなんだ」と、そんな自分を眺めている。

それが「1」だから、その程度でじゅうぶんなのだ。


ちなみに「1」しかピアノを練習していなくて、ええと、具体的には1日30分かね、その「1」状態でレッスンに行くと、マイナスばかりではなかった。

「すべてあきらめきっている」「自分がどうこうしようとまったく思わない」「どーでもよろしい」「どーにでもなれ」という心地で、先生のご指導に白々と耳を傾け、はあ、そうなんですねと、ただそのままあきらめきって弾いてみると、いや、そう悪くなかった。

あきらめて弾くと、冷静に音が聞こえてくる。ああ、こういう方向ねとわかって微調整しやすい。

ということは、だ。これまでは「自分がどうこうしよう!」という「作為」が多すぎたんだよね、きっと。「自分がああしてこうして」をやめたらマシになった。自分、いらんな。


いらんいらん。

「1」の私なんて「0」に毛が生えた程度やわ、と思っていると、なんか「他人の態度」が遠くに見えるようになった。

あのう、だれかの機嫌が悪いとかいいとか、かなり遠くにちっちゃく見えるみたいな感じだね。

イライラしているひとがいても、遠くに見えて、ああそうみたいだねとちょっと思う。
楽しそうにしているひとも、やっぱり遠くて、ああそうみたいだね。

なにこれ? ふしぎ。こんな感覚は生まれてはじめて。


まあ、要するに「他人の機嫌」に左右されなくなった。実感としては、ああ、あのひとはそうみたいだけど、はあそうなんだね、ぐらいしか自分が反応しない。

はれ? もしかしてこれこそが「他人と適切な距離が取れている」状態なんだろうか?

そうかもしれない。

くだんのEさんに対しても、まあ、ほんとは今日中にラインしたほうがよかった。でも、Eさんの機嫌はEさんのもので、私がどうこうせんでよろしい。もし私の態度でEさんが気を悪くしたとしても、ああそうなんだね、と遠くからチラッと見送ればいい。

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