苦情はちっとも聞きたくないのだが

私は、わりと他人から感情をぶつけられやすいみたいだ。ナメられやすいのかもしれない。

パート先で、お客さんとかがほかのひとにはなにも言わないのに、私にだけ苦情や文句を言うことがある。その内容は、私個人のことではなくお店のことだったりする。

どこに勤めていても、なんとなく「苦情引き受け係」になっているような気もする。

そうなってしまった理由はすぐにわかる。母ちゃんのグチを積極的に引き受けてしまったからだ。正確に言うと「グチでもなんでも黙って何時間でも聞きます。その代わりに私を好きでいてください」という「取引」を母と取り交わしてしまったのだ。

長年こういうコミュニケーションをしてきたから、他人にもコレやっていると思う。でも、なんか対等じゃないよねえ、しんどいねえとむかしから感じている。


やめたいな。
うん、やめよう。

でもまあ、すぐにはやめられない。その代替方法がまだよくわからない。

しかし、このごろ少し改善されてきた。いまだ「苦情」はよく来るけれど、その苦情の背景は、そのひとの「過去」にあるとわかってきた。

だれかが私に文句を言ってきても、それは「私本人」に対するものじゃないとよくわかってきた。私が引き金になっているものの、その文句の「大元」は、言ってるひとの「過去」にある。

そのひとは、「過去のなにか」を私に投影して、それで怒りたくなっているのだ。


そのひとの言い分を傾聴していると、過去にどんなことがあったのか、かなりメドがつくこともある。

それがわかってくると、思わず反論したくなることもある。それ、私じゃないよ! 私はこうしただけでそのひとじゃない。私はこう言ったけどそのひとじゃない。

うっかりそんなことを口に出したこともある。
私は、そういうつもりでしたんじゃないですよ、とごちゃごちゃ言いかけた。

しかしそんなとき、相手のひとはぜんぜん聞く耳を持っていない。なにかを私に投影している状態で、しかもその「過去」は直視したくない内容だから、「私しか」見えていない。そりゃ、私がなにか言っても当然わかってもらえない。


このごろは、私が投影先を引き受けたのはなにかのご縁かな?と思って、黙って聞くようにしている。このこと、べつに私に言いたいわけじゃないよなと区別しつつ、自分は「池」みたいになろうかなと思っている。

そんなに大きくないひっそりとした池。その池に、だれかがふらっとやってきて、ブツブツ文句を言うだけ言って、また帰って行く。

ちゃちい池だから、たいしたことは聞けないけど。粗大ごみとかぜったいあかんで。そんなんムリ。

でも、ちょっとしたことならええわ。ああ、そうやってんねえ、そんなことがつらかってんねえって聞く。

つらかったのは、私もおなじだから。


なんかええかっこしているみたいだが、しかし私もまた「他人の本性」はちっともわからない。

そのひとに、おもくそ「自分の過去」を投影しまくっているから、いったいそのひとが本当はどんなひとなのか、さっぱりわからない。

その「ぜんぜんわかっていない」度合いが、おそらく99%ぐらいだろうと「わかって」きて、そう、いまようやくわかってきたから、じゃあこれまでぜんぶわかったように思って来たのはいったいなんなんだ?と首をかしげている。

いろんなひとのことを、あのひとはああいうひとで、このひとはこういうひとと決めつけてきたけど、本当はなにひとつわかっていなかったと気づいた。


「わかったこと」にしておくと、いちおうラクなんだ。予測不能じゃなくなるから。

でも、いつまでもそれやってたら、だれのこともわからずじまいだねえ。

ひとのこともわかりたいかな。

ああ、それは投影だから、結局は、自分のことをもっとわかりたいんだね。自分の「本来の姿」を見てみたいだけなんだ。

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