つぎの彼氏を見つけてすがすがしい妹に触発されて

妹から「彼氏のことを自分の中でどうしたらいいのかわからなくって」と電話があった。

どういうことがわからないのかは、おおよそ見当がついた。そしてまた、妹も「おねえは、また勝手に心理学のやりかたで結論出して、こう言うにちがいない」と思っているだろう。

いや、すいません、さすがにそのクセはやめますよってに。答えを出すのはクライアントさんです。とウソぶきながらも、私は「『彼氏さんが主語』の話は、どんだけ聞いてもおんなじなんだけどなー」と内心思っていた。

まあ、それも妹はわかっているんだ。だから妹は「女のコだったら話聞いて欲しいときもあるよね?」なーんてかわいらしいことを言ってた。いやいや、もちろんちゃんと聞くよー。で、彼氏さん、すっごいウソつきらしい。ハナシのつじつまが合わず破綻してばかりで、そりゃ傷つくよね。


妹「もう、ウソつきはイヤだ」

おお、ちゃんと結論出してる。エラい!

妹「じつは、職場で気になる男子がいるんだ。うふふ」
私「えーっ?! もうつぎのアテがあるんだっ!」
妹「気立てのいいやさしいコだよ。彼34才だから、ちょうど20才年下。いきなりすごくプライベートな話もしてくれてさ」
私「こ、こんどは20才年下っ! どんどん低年齢化が進むっ! だ、だいじょうぶかっ! そのうちナントカ年齢に引っかからへんかっ?!」

いまの彼氏さんと煮詰まっていたのは知っていたが、つぎの目星が付いているのには仰天した。さすがだねえ、ほんと切れないねえ、それはもう才能だねえ。


ただ、いろいろ聞いていたら、妹ってほんとに「助けたいひと」なんだなあってつくづく思った。

なんか妹の前には「困っているひと、傷ついているひと」ばかり出現する。で、「いつも助けたい」妹にとっては、そういうひとたちがあらわれるのが好適なんだよね。

じっさいに「妹の前でとつぜん倒れるひと」もたくさんいて、今日はそんな話もたっぷり聞いた。いや、ふつう人生で、そう目の前でバタバタ人間がころがるってありえないよね。ふつうに駅とか道とかで、そうそう出くわさないよね。

でも、妹の前には偶然何人もころがってくるらしい。そのたびに救急車を呼んだり応急措置をしたりものすごくたいへんだ。たぶん私の近辺でもバッタリ倒れているひとはいるんだろうけど、私はまったく「助けたい」と思わないヤツだから、目のハシをかすることもない。


具合が悪くて妹の前でバタンとなるひとはともかく、おおぜいの男性が妹と出会うと、なにかしら深い問題をすぐにあっさり話してしまいたくなるみたいだ。「このひとならわかってもらえる」と思わせるなにかを妹は放っているのだろう。

私「まあ、そのう、『本当に助けたい』のはT子ちゃん自身だよね。でも、きっとT子ちゃんは、他人のなかに『助けたい自分』を見て、そのひとを助けたくなるんだよねえ」
妹「いつもだれかを助けたいよ。それにいつもだれかを愛していたい」

ふうん、その愛が直接自分に向かわないんだねえ。

このごろ私は、他人と接しているとき、そのひとのなかに「自分には、まったく存在しないモノ」を感じることがある。


こういうことは過去にまったく経験がない。これまではというと、「自分の枠組み」のなかでだけ他人を判断していたから、その狭い範囲内のモノしか見えなかった。なので、だれかと話をしていても、べつに驚くことがない。すべて自分の枠で処理してしまっていたので、自分と他人とのちがいすら認識できなかったのだ。

しかし、ここ最近他人の言動にヒドくびっくりしたりする。「そんなことを考えて生きているのか?!」と驚愕する。「そのひとのやりかた」は「私のやりかた」とはぜんぜん異なっていて、でも「そういうやりかたもイケるんだ」と感心する。

だから、「ちがいっておもしろいね。ひとってそれぞれにユニークな存在で、そのひとのやりかたが自分とちがうとすごく新鮮だね」と思いつつある。

それは妹に対しても感じられて、今日は妹の「愛が自分に向かわず、他人に向けられる。そして他人がその見返りとして自分を愛してくれる」という高難度な「自分の愛しかた」を聞いて、やはり唸ってしまった。


私は自分のことしか関心がなく、他人を助けたいとはさらさら思わない。とくに「助けが必要なひと」にはいっそう興味がない。めんどくさいだけだ。関わりたくない。

でも「私とはちがう妹」は、そうか、まず他人を愛するんだな。そういうやりかたが得意なんだな。向いているんだな。そうするのに長けていてやりやすくて自分の本領を発揮できるんだ。今日はじめて得心が行ったよ、いまごろ。

だったら、そのやりかたを極めたらいいよねえ、とこれもまた、はじめてそう思った。

妹のやりかたは妹のやりかたでいい。きっとそれでうまくいく。

じゃあ、私はどうしたらいいんだろう?


そしたら、こんどは妹が私の話を聞いてくれた。妹のやりかたに感心したら、自分のやりかたにも道筋がついてきた。なんだかとても自由になれた。

私「やっぱり働きたくないな」
妹「うん」
私「私はそもそも『働く』のが向いていないな。T子ちゃんの話でよくわかったけど、仕事にはなんらかの『助ける』とか『自分の能力を提供する』っていう意識がないとダメなんだね」

そうなんだよね。妹は「自分の能力を提供して」→「その対価を受け取る」というのが、ごく自然にできるけれども、私はもともと「なんにも提供したくない」んだよね。なんのパートをやっても、どれもこれもぜんぶ「やりたくないこと」だから、ちっとも提供なんてしたくない。

だいたい「何時何分に決められた場所に行く」ということが、もはや納得できないのだ。その行為を提供するのも、ほんとはイヤなのだ。イヤなものはイヤで、18才のときからいままでずーっとイヤでしかたがなくて、それはこれからのちも変わらないだろう。


私は妹に言った。「私はどんな仕事をしていても、『この仕事をするために生まれて来たんじゃない』って強烈な違和感があるんだよ」

妹「じゃ、おねえはなにをしているときに『このために生まれて来た』って思えるの?」
私「まずは『山』だね。それから『ピアノ』。それだけだね」

妹に話しながら、自分の気もちが固まった。

やっぱり一年後には年金を繰り上げてもらおう。働きたくないんだから、できるだけ早くパートはやめよう。

そして、晴れているときは低山に登り、下りてきたらピアノを弾こう。なんの意味もなくダラダラしよう。困っている他人は無視しよう。

そうするためになら生まれて来たと実感できるから。

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