「ピアノを練習する」という作業

もうまもなく、ピアノのレッスンを再開して2年になる。

で、つくづく思うのだが、ちょっとでもマシにするためには「練習時間を増やす」ことに尽きる。

・練習時間が増えれば → マシになる
・練習時間が減れば → ヘタになる

なんかもう、それ以外の選択肢がない。ほんと、みごとになんにもない。

ピアノをうまく弾けるようになるためには、たぶん練習以外の要素も必要かもしれない。たとえば、CDを聞いたりとかかね。でも、私はほとんど聞かないな。じっさい毎日やってることは、練習だけである。


その練習時間が多いか少ないかで、ごく単純に小マシになるかヘタクソのまんまか決定されてしまう。

例外は、ない。たっぷり練習したのに→ヘタクソのまま、ってことはいちどもない。また、ぜんぜん練習していないのに→マシに弾ける、ということも皆無だ。

・練習すればするほど → マシになる
・練習しなかったら → ずっと弾けない

それだけである。

つまり、ピアノってわりと「作業」なんだなあと実感している。「作業量」と「出来上がる数」は比例している。1時間作業すれば10個でき、2時間やれば20個、4時間やれば40個という感じである。


どない集中してがんばっても1時間に40個はできない。逆に、作業手順さえ固まっていれば4時間で40個は確実である。

まあ、作業だよねえ。どの曲も4小節ずつにわけて、「左手を暗譜するまで練習、片手交互練習を10回、両手を10回」をワンセットにして、一曲を弾けるようにする。そのあとは適宜濃淡をつけて、反復回数を10~30回に変えてムラなく仕上げていく。

なんだかねえ、細かく分けたピースを一個ずつ丹念に磨いていくような「作業」である。

まあ、作業系は好きだな。黙々と同じ動作の繰り返しはけっこう好き。


山登りも「足の作業」に過ぎなくて、右足と左足を交互に持ち上げるという作業を50分繰り返し、10分休憩、また50分作業10分休憩、それを4回繰り返すと八合目に到着とか、ただそれだけのことである。

「作業」はべつにむずかしいことではない。アタマを使うこともない。ただ「やる」だけでいい。淡々と動かしているだけだ。

山は、天気さえよければそんなに作業量を増やさなくても楽しめる。なにも頂上まで行かず、とちゅうまでちょっと登るだけでいろいろ楽しめる。池のところで引き返してもいいし、峠で折り返してもじゅうぶんおもしろい。

ところが、ピアノはそうもいかなくて、まあ最低2時間/日は作業しておかないとどうしようもなくなる。少しでもマシにしておこうと思ったら3時間/日は必要だ。


ただし、ピアノは全天候型であり、また電子ピアノがあれば何時でも弾ける。この気軽に触れられるメリットは大きい。いまのところ山はめんどくさすぎて行く気にならず、その分ぜんぶピアノに投下しているから、どんどんピアノが楽しくなりつつある。

結局、総練習時間に応じてそれなりにマシになってきた。いちおうこれまでのところはね。

しかし、それは「57才から59才まで」に限っての場合である。これからは老化も進むわけだし、「作業して出来上がる数」が減っていくことを覚悟しないといけない。ちょうど下りエスカレーターを逆向きに下から一歩一歩上っていくようなあんばいだ。

まあ、それでも上れるうちに上っておこう。弾いていておもしろいから、とりあえず進んでみたい。


きっといつかは「作業してもゼロ」の日が来ると思う。いくら練習しても上達しない日がやってくる。

それはやがて「作業してもマイナス」に転じるだろう。からだの衰えを練習でカバーできなくなるはずだ。何時間練習してもだんだん弾けなくなるにちがいない。

けれども、それは自然の摂理だから。だれもがそうなることだから。

「できていたこと」が「できなくなる」のがトシを取るということだから。それを受け入れるのが「静かに賢く老いる」ことだから。

そうとわかっているからこそ、そうなるまでは「作業」してみようかなと思っている。

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