さんざん「仕事が全滅」だったグチをこぼしてきたが、そういえば「人生において『仕事』をどのぐらい重要ととらえるか」は、さまざまである。
私は、生活時間に占める仕事の時間があまりにも長いので、ただそれだけで「仕事はひじょうに重要なものだ」と勝手に思い込んでいた。だって、若いころから何十年もやるものだから、いっちゃん重要なはずだと当たり前に思っていた。
でも、そうとばかりは限らない。
仕事以外に、家族や趣味をたいせつにしているひとも多いだろう。仕事そのものを、単に「生活の糧を得るためにしかたないモノ」と割り切って、なんとも思わないひともいるだろう。
じゃあ、自分はどうして「仕事」に対してもっとどうってことないようにふるまえなかったのか?を考えたら、結局「仕事で、だれかから『すごい!』と言われたかったんだな」と気がついた。
なぜ「仕事がすごい!」と言われたかったのかというと、学歴がないからだ。「学歴がすごい!」とはだれも言ってくれないから、新規蒔き直しで代わりに「仕事がすごい!」とだれかに言ってもらいたかっただけだった。
けれども、その「だれか」ってほんとは他人じゃない。かりにもし他人百人にホメられても私は満足できず不安だろう。
ほんとは「親」にホメられたいのだ。しかもその「親」というのは、リアル親ではなく、「私の心に内在している親」(インナーペアレント)である。で、「私の心に内在している親」とは、私自身の一部である。だって自分の心のなかにあるからね。自分の記憶として存在する親(子ども時代に作った親像)だからね。
つまり、私は「私自身からホメられたい」のである。私は「私自身から認められたい」のである。
要するに「自分で自分を認めていない」から、こういうことになったのだ。
やあ、こんにちは!
安定しておなじみの結末だねえ。
あたしゃ、これ、死ぬまでやっとんのかねえ。
「そこ、居心地ええのん?」と尋ねられたら、答えは「はい」だね。
どうしても「子ども」というポジションの居心地がいいから、ずっとそこにとどまっている。
ここから抜け出したら、おそらく「おとなの世界」があると理屈ではわかるが、じっさいに抜け出そうとは思わない。勝手知ったる「子どもの世界」でずっとうずくまっている。
「子どもでいる」ということは、だれかに「与えないでいい」ということだ。「子ども」でいれば、だれかから「もらうだけでいい」。他人から「与えてもらうだけ」ですむ。そして、その与えてもらう量が少ないだの、質が悪いだの、文句だけ言っていたらいい。
そういうお気楽で責任を取らなくていいポジションが大好きだから、私は意地でも「子ども」のままであろうとしているのだ。
自分がなにひとつ苦労しないで「タダでもらう」のがいっちゃんラクだから、とうとう年金を繰上げ受給しようというところにまで行き着いた。
やあ、春子ちゃん!
おとなになりたくないとスネにスネて数十年、逃げ回ってきたんだねえ。
そうだな。
逃げてきたな。
てか、「子どもで居続けること」を親に見せつけたかったんだな。
おまいらのせいで、あたしはおとなになれねーんだ、どうしてくれる?ってやりたかったんだな。
だから、これからも働かねーぞ。
働いてなにかを提供するなんてまっぴらごめんだぜ。
そんな「おとな」みてえなことは金輪際やらねーからな。
ふうん、じゃ、お前さんはもう「おとな」にならないつもりかね?
そだね。
このままでいいね。
だいたい「おとな」がなんなんかわからんし。
「おとな」にならなくても、もう親が育ててくれなくても、こんどは国がめんどうみてくれるからだいじょうぶだよ。
ほんとにそうかね?
そだね。
私は子どものままで、これから先もしぶとく生きていく。このままつづけたいんだよ。
だれかにおんぶに抱っこで、なにがどう困るのか行き詰まるのか、そんなことがほんとに降ってくるのか、アタマ打つまで止めないよ。
そうかな?
お前さんの根っこの部分は、ほんとにそういう人生でいいと言っておるのかね?
………………。
それは、……ちがうかもしれない。