少し治りかけていためまいがまたブリ返した。さらにどういうわけか顔の側面が赤く腫れてきた。熱もあるぞ。ヘン。
まあ、いつでも病院に行けるから、とりあえず寝てやり過ごそう。
いまはモーツァルトソナタの第2楽章をやっている。トリルがたくさんある優美な曲。
で、楽譜のまんまだと「4音入れるトリル」があったのだが、先生のご指導で「そこは5つにしましょう」となった。ほかの似たようなトリルは5音だから、なるほど、ぜんぶ5つにそろってきれいだね。
でも5つも軽やかにうつくしく入れるのは至難の業、その前の部分から緊張するし、トリルのとこはいかにも苦労してます!みたいに悪目立ちする。そういうときは、トリルのさいしょ1音目をごくわずか早めにフッと入れるときれいに入りますと教わる。ほんと、そう。
ついで先生から、あるオペラのアリアで、トリル5つは最難度、4つはふつう、それもアレだったらみっつふたつひとつに減らしますというようなお話をうかがう。ふうん、トリルってみんな苦労するんだね。
それにしても、トリルをいくつ入れる? 4つは少ないか、やっぱり5つでそろえるか、いっこ増えるだけでもしんどいな、ってなことをあれこれ思案しているって、はあ、ひどく平和だなあ。
春日武彦(精神科医/文筆家)がどこかで「今日もごはんがおいしく炊けたと喜べる人もいれば、一億儲かっても文句しか出て来ない人もいるわけだ」と書いていたが、そうだな、その「今日もごはんがおいしく炊けた」にちょうど当てはまるのが、私にとって「今日もピアノを練習できた」なんだろうね。
「楽器を弾く」ということは、だれもが全員がやっているんじゃない。趣味もいろいろだが、ピアノはデカくて音量もすごい。
それを毎日練習して、トリル何個が入る入らないで一喜一憂するのはどうなんだろうと思うけど、しかし私には「ごはんを炊く」ぐらいに「ふつうで当たり前」に思える。
「山」とくらべるとね、ピアノはそこまでなじんで手中におさまっていないのだが、でもやっぱりずっとかまけていたいことで、4つか5つかどうしよう?というのはとてもなごやかでしあわせな悩みだ。
長年「仕事がデキないこと」を悩みつづけていたけど、もう仕事のことはなにも思い出さない。ようやく解放されたのに、でももうアタマに浮かばない。
あの40年間はなんだったんだろう?
いや、どの仕事も嫌いだった。強制的にやらされる苦役だった。
だから、仕事の記憶はもう消えてなくなってしまった。
多くのひとが「働くこと」に「ごはんを炊くこと」のようなよろこびを見出せるんだろうけど、私にはムリだった。
結局、私がやりたかったのは、「毎日ごはんを炊く」ように「毎日ピアノを弾く」ことだった。