なんの仕事をやってもことごとく失敗だらけで、ハシにも棒にもかからなかった私だが、大むかしの単純作業はまだマシだった。
ゴム印を押すとか、封筒のあて名書きとか、番号を振っていく、線を引く、……そういう作業はなんとかデキていた時期もあった。残念なことに、そういう仕事はいまはもうあまりなさそうだ。たぶんコンピューターに取って代わられてしまったのだろう。
私は「同じことの繰り返し」が好きなので、ただボールペンで線を引くといった仕事でも毎日何時間でもやっていた。
けれども、この仕事を何年やっても、自分の内部になにか蓄積されるものはなさそうだなあと思えてしまって、どこかむなしさを感じていた。
ゴム印を押すために生まれてきたのだろうか? いや、ちょっと違和感があるな。
しかし、ゴム印押しの適性はあったかもしれない。ほどよくインクを付けて、まっすぐ正確に印面を押し当て、均等に力をかけ、にじむ寸前にタイミングよく紙から離す。ただそれだけの作業を黙々やっているのは楽しかった。何万枚押しても飽きなかった。
父方のじいちゃんは工場の工員だった。小学校を出たあと紡績工場で働きはじめて、55才で定年になるまでずっと現場で作業をしていたらしい。
仕事になんの疑問も抱かず、出世にもお金にもぜんぜん興味なく、ただ工場と社宅の往復だけで満足しているひとだったと父ちゃんから聞いたのだが、いまの私は、ああ、そういう人生もいいもんだなあと思う。
結局私は、なんかどこかエエカッコをしたかったがために、仕事とウマく折り合いをつけられず、いまはタダの無職になってしまった。
でも、ゴム印押しはカタチを替えて役に立っているようだ。というのも「ピアノの鍵盤を押す」という動作に似通ったものがあるからだ。
それもシンプルになればなるほどおもしろい。「ドレミファ|ソファミレ」だけで1時間があっという間に過ぎていく。うん、まだまだゴム印のほうがきれいに押せるな。ピアノはまだうんと汚ねえ。ゆがんだりかすれたりにじんだり、こりゃあもっと押さねえとな。
そんなふうにペッタンペッタンしたあげく、今日はピアノのレッスンへ。
このごろハノンは30分、ツェルニーは1時間半ほど。バッハとソナタはうっすーい練習に押しやられている。
▼バッハ:フランス組曲第6番ブーレたまたま「まぐれ」でまあまあ。バッハはまた手薄であまり練習できていなかったのに。マジで「ドレミファ|ソファミレ」しか弾いてないけど。
▼その本家本元、ツェルニー40番の9番
先生「左手はほとんどできていませんね」と憮然とおっしゃる。仰せのとおりでございます。丸2年習っても、左で「ドレミファ|ソファミレ」を弾くのは至難の業ですたい。
それからしばらく先生より「ドレミファ|ソファミレ」についてご説明。ほんともう、たかが「ドレミファ|ソファミレ」、されど「ドレミファ|ソファミレ」で、「ドレミファ|ソファミレ」のお話だけで、先週と合わせて30分以上うかがっているんじゃないか。
しかし、だ。やっぱり「ドレミファ|ソファミレ」は奥が深くてひじょうにおもしろい。もっとペタペタしたくなる。
だが先生は容赦なくこう言われた。
「春子さんに欠けていることがふたつあります。ひとつは『観察する』ということ、もうひとつは『考える』ということです」
あうっ……、た、たしかにそのとおりですね。
私は「数をこなせばなんとかなる」と無精こいており、ほんと「観察」も「思考」もおこたっていたからねえ。たぶんゴム印のほうがもっとよく見て考えて押していたよ。
▼モーツァルト:ソナタK332 へ長調第3楽章
あちこち傷だらけでボロボロだったねえ。
これも「練習不足」というより、う~ん、「観察と思考」抜きでゴリゴリやっているのがあかんなと反省。
で、まずなによりも「ドレミファ|ソファミレ」をきれいに押せるようになりたいのう。ゴム印みたいに。いや、ゴム印よりもっときれいに。
それって、もし「『ドレミファ|ソファミレ』を弾くために生まれてきたん?」って訊かれたら、「うん、そう!」ってヘラヘラしながら返事できそうなんだしね。