ピアノの先生が、このブログのことをご寛恕くださり、「なんでもご自由に書いてください」と言われて、そして先生はお忙しいのでもう読むことはないとおっしゃった。
ホッとした。
ああ、ずっと気がかりだった悩みがすべて解決したよね!
でもまあ、さすがにひじょうに恥ずかしかったわ。
もうちっと上品に書いていたらよかったと……チラッと思ったけど、いやあ、それもまったくムリだしね。私は、体裁つくろうとかぜんぜんできなくてねえ。
結局、私の本性が「下品、目立ちたがり、めんどくさがり、ナマケモノ」なんだよね。
ほんとはそーゆーのを自分でもヤだなあと思っているし、あんまり丸出しにしたくない。けど、巧妙に隠すのも「めんどくさい」。
そう、「めんどくさい」ってのがいっつも充満していて、それでなんでも無精こいて、ブログなんかおもくそぜんぶブチまけたれ!ってケツまくってんだよね。
そういう「露悪趣味」は、一種のヤケクソでもあるし、または「防御」でもある。
やっぱり本当は他人から「あんたは下品だね」って言われたくないのだ。なので、ひとから言われるより先に「ほらあ、自分、下品でしょ?!」って見せておく。先制攻撃かもしれない。明日ころぶのが怖いから、今日のうちにころんでおくみたいな手かもしれない。
うん、だから、いつもどこか不安や怖れがあって、そうだなあ、ピアノもやっぱり「怖々」弾いてたよね。
けれども、ここしばらくのうちにその「ストッパー」がなぜかハズれてきたんだよねえ。
そしたら、不意にちょっと速く弾けるようになったり、大きめの音が出せるようになってきた。思い切ってばぁーんってやってもいいのかも。やっちゃえ。
▼昨日のレッスンで、その「ばぁーん」をやっちゃったモーツァルトソナタK332の第3楽章。
こういう曲は一生「らしく」弾けないと思っていたけどねえ。
でも、自分としてはびっくりするほど「らしく」寄りに弾けてしまった。だいぶん傷だらけだけど。
先生は「とても活き活きとしていました。よくこんな曲を弾けるようになりましたね」と言われた。
私はつい思わず「はい、まさか自分の人生でこんなふうに弾けるとは信じられません」と答えた。
先生「これまでずっとどの曲でもモタついた感じがあったんですが、今日は、あちこち弾けていないものの、モタモタした感じはまったくなかったですね。音に芯や粒が出て来ましたね」
おお! なんとうれしいおことば!
しかし、ね。いつも思うんだけど、それはほんとに先生のおかげなんだよね。いやあ、もうそれだけで。この先生に教えていただかなかったら、ぜったいこうはならなかったなと。
だから、そのまま「先生のおかげです。ありがとうございます」とお礼を述べた。
そうしたら、しばらく黙っておられた先生が、やおら「私のブログ」のお話をされましてのう。
もうね、ホラーかよっ?!みたいな展開ね。いえいえ、先生はていねいに説明してくださったのだけどね。しかし、私はいきなり地獄の一丁目。
けれども、さいしょに書いたとおり先生はご了承くださったので、私は必死こいて地獄から這いずり出して次の曲、バッハ:フランス組曲第6番ジーグ。
ウチではずっと暗譜してたけど、レッスンじゃぜったい崩壊するとわかっていたので見て弾いたのだが、まだまだ弾くのがせいいっぱいというありさま。ふう。
ただ一部分「ちょっとテンポが速くなってしまった箇所」があったとのこと。もちろんテンポは一定に保たないといけないけれど、先生は「それだけ指に余力があるんですよ」と言ってくださった。へええ、余力? この私に余力だなんて!
しかし先生「モーツァルトはあんなに楽しげに弾いていたのに、これはあんまり楽しくないですね。こちらのほうがもっと純朴に楽しい曲ですよ」
う~ん、楽しくしたいのはヤマヤマだけど、それこそまだぜんぜん余裕がない。
すると先生は、声楽のレッスンの様子をくわしくお話してくださった。「額に口があるイメージ」で声を出すらしい。あくまでイメージだが、そう念じて声を出すと本当にさも額から出ているかのように響くらしい。
先生「ピアノも『楽しい身体』で弾いてください」
そっかー、「楽しい身体」かー、いいことばだなー。
私は、たまたま今生、この身体で人間として生まれてきて、おそらく80年ほどこのカタチでいられるのだろうけど、ピアノを弾いている時間なんてほんの少しなわけで。
こうしてピアノを弾けることは「とても楽しいこと」であり「稀有な一瞬」なのだから、その「楽しい身体」をまさにその音で表現するのはぜひやってみたいねえ。