今日は、ピアノのレッスンだったので、レッスン記事を書いておきたい。
でも、アタマが「ぶわぁ~」と、とっ散らかっていて、書けそうもないなあ。
そういえば、レッスン記事は、毎回ものすごく時間かかるのよ。
それは、どうしてなんだろう?
と、よく考えたら、その「アタマの散らかりかた」がヒドすぎて、しょっちゅう「フリーズ」しているからだとわかった。
なんでしょね?
この「ぶわぁ~」ってのは?
でも、「ぶわぁ~」のあとは、いろんなコトの「再編成」というか「組み換え」が進むんだよ。
そいで、ほんのちょっと、ピアノのフェーズが変わるというか。
そうだなあ、ほんと、毎週、なにかしら変化させてもらっているなあ。
それはちょうど、まるでカウンセリングのセッションみたいで。
あ、そうそう、カウンセリングを受けたあとの「ぶわぁ~」は、そう、レッスンのあとの「ぶわぁ~」と、おんなじだった。
うむ、そうか。
ならば、レッスンの直後に、冷静にちゃかちゃかブログを書くのは、むずかしすぎて当然か。
それにしても、ピアノのレッスンというものが、毎回こんなに「深いところ」に潜っていくとは、まったく予想していなかった。
ほんと、カウンセリングじゃないけど、あ、この音に、こんな「屈託」があったんだ、じゃあ、その想いを大切にしてあげないと、とか。
この1小節は、もっととくべつに深堀りしないと、とか。
そんなふうに、「音は、なにを伝えたいのか?」、いつも考えて、思い巡らせて、そのためには、こっちをこう磨いて、あっちはサラッと流して、とか。
引いたほうがいいか、出したほうがいいか。
ちょっとグイッとするか、もっとためらうか。
なんの因果で、「音の言い分」ばっかり、ああだろうか、こうだろうか、と。
ふしぎ。
なんで、そんなことに、ずっと熱中しているのか、ほんとふしぎ。
でも、私は、「音の並びが、なにを言いたいのか?」について、「それは、こういうことなんですよ」と、微に入り細をうがって教えてもらうのが、とても好き。
そうだね。
それを「知る」「わかる」というだけで、ほう、なんとすばらしいと満足してしまって。
以上、おしまい、かね。
で、よくカウンセラーさんが、「クライアントさんのなかに、『深い愛』を見て感動する」と言っておられる。
ああ、それそれ。
そんな感じに近いかも。
「音の並び」に、ああ、こんな「うつくしさ」が宿っているのか、って感動ね。
え?
でも、ピアノはー、自分も弾かなきゃー。
なんか、べつに「弾くために、習っている」という気が、ぜんぜんしないけど、う~ん、来年1月は発表会だよねえ。
「こんなに変わってしまった自分」が弾くって、どんなんだろうね?
そうだ。
今日は、「『最初の一音の恐怖』の乗り越えかた」について、教えていただいた。
うわ、みんな怖いんだなあ。
けど、だいじょうぶなんだって。
「委ねかた」が、ちゃんとあるんだって。
とか、また、そんな「ふしぎな話」をこっそり聞いちゃったから、ぶわぁ~ってなって、もう書けないんだよ。
ごめんね。