ピアノで「語る」
音楽って「物語」を想起させるものだということが、はじめてわかって、ちょっと呆然としている。
これまでにも、断片的な「イメージ」が、浮かぶことはあったけどね。
でも、そういう切れ端だけではなく、そもそも曲全体に、ちゃんと物語の背景があって、しかも登場人物が何人もいるということは、ちっともわからなかった。
もちろん、ピアノ曲は器楽曲で、詩があるわけじゃないから、どういう物語なのかは、自由に思い浮かべたらいいのだが。
で、「歌のような旋律」だったら、それはもう、物語に登場する「こういう人物が語っている」と設定すると、弾いているときの気分がぜんぜんちがうねえ。
「ピアノを弾く楽しみ」って、ほんとは、こんな気分なんだって、すごく驚いている。
「すずらん」のように弾く練習
でも、思い返したら、ハノンでそういう練習は、ちゃんとたくさんやったのよね。
ハノンのさいしょのところで、「上りは『春』、下りは『秋』で弾きましょう」とか。
「人物」なら、「赤ちゃんを抱いているお母さん」と「14才の少年」との弾き分けとか。
「森の主のような鹿」と「奈良公園の鹿」とか。
「野良猫」と「ペルシャ猫」。
「ひまわり」と「すずらん」。
「黄色」と「ピンク色」。
対比させる設定は、自分で決めるんだけど、なににしようかなあ?って考えるのも楽しかった。
で、それを「弾き分ける工夫」も、すごくおもしろかった。
どういうわけか、私にとって、このおもしろさは、心理学セミナーの実習にとてもよく似ていた。
なのに、それを曲で応用するのが、ぜんぜんできてなかったよ。
「後ろの音を小さく」ではなく、それは「吐息」だから
「ふたつの音(下降)」が並んでいて、ふたつめを「小さくする」というのは、なんかもう、当たり前のことだけど。
▼モーツァルト:ピアノ・ソナタ第4番K.282 第1楽章 変ホ長調の楽譜、21-26小節
わかっているけど、デキない、あ、失敗した、また尻モチだ、ちっちゃくしなきゃ、もっとちっちゃく、いつもちっちゃく、ちっちゃくちっちゃく。
って、ずーっと思ってたけど、それってなんなん?
「後ろをちっちゃく」するのが、目的じゃないよね?
そうじゃなくて、それは、ほんとは「吐息」をついているからだよねえ。
ため息だったり、ひかえめにつぶやいていたり、目を伏せたり。
まず、「ひとのしぐさや、表情、口ぶり」があって、それをあらわすために「旋律」があるんだよねえ。
いやあ、もう、オノレのアホさ加減にあきれるわ。
あのう、先生は、さいしょからずっと、そういうこと全般、教えてくださっていたのにねえ。
ずっとわからなかった
。
「感情を表に出すこと」を禁じていた
どうして、そんなにも「わからなかった」のか?
それはたぶん、自分の感情を、表に出すことを禁止していたからだろう。
そうだと思うよ。
「はあ」とか「ふう」とか、ため息つくのも、禁止してたもんね。
人前で、ため息つくなんて、もってのほか。
そしたらさ、「ため息禁止」してたら、「吐息のように弾く」ってできなくなるんだねえ。
はああ。
練習するにしても、ただただ「後ろをちっちゃく」。
ちっちゃくなったか、そうじゃないか。
それを、ひたすら練習するだけ。
はああ。
「呪い」は解けた
このところ、急速にいろいろ変わってきた。
で、最終的に、妖精があらわれて、「呪い」が解けたんだよね。
朗々と「シ♭」を歌い上げていいんだよ。
ため息ついていいんだよ。
嘆いていいんだよ。
はは、そうか、そういうことだったのか。
いま、練習は「後ろをちっちゃく」じゃない。
「ため息をつく」練習。
ため息をついたり、よろこんだり、とまどったり、悲しんだり、嘆いたり、もうそりゃあ、なんでもできるんだね、音楽って。