昨日、公民館の広い部屋で、よく整えられたピアノで練習したら、ひゃあ、今日ウチでピアノ弾いたら、音がちがって聞こえる!
まあ、ウチのピアノも、フタ(大屋根)全開にして、譜面台取ってみたが、う~ん、まるでちがう音がすごい音量で聞こえる。
いや、過去にも、そういう状態で何度か弾いたことあるけど。
でもなあ、今日はあまりにも「まったく別のピアノ」みたいに聞こえて、ものすごくとまどった。
そして、すごくいい音だから、きれいな音に酔いしれる。
あ、だけど「ちゃんといいタッチ」じゃないと、きれいな音は出ない。
たまたまウマくピンポイントでそういうタッチで弾けると、そうだ、「遠くに飛ぶような音」が響く。
昨日、広い場所でよくわからなかったそのイメージが、今日ウチのピアノで、ちょっとわかった。
てか、あまりにもぐわぁんぐわぁん響きすぎて、ええっ?! これまではなんだったんだろう?
なんか、まったく「別の楽器」みたいだ。
ヘンだなあ、ウチのピアノまで、響きかたがぜんぜん変わった。
なぜだろう?
そしたら、ふうん、もしかすると「私の耳」が変わったのかもしれない、と思い至った。
なんとなく、そっちかな?と思った。
去年11月、ハープに興味を持った。
Facebookでつながっているお友だちが、プロフィール写真を、ハープ演奏してる写真に変えて、なぜかめっちゃ気になってきた。
「弦を響かせる」というのが、すっごくうつくしいように思えた。
でもな、ピアノも「弦を響かせる」はず。
なのに、私はそうではなくて、「ピアノの練習 → 指の運動」だとずーっと思い込んでいた。
まあ、多少はね、音を聞いているつもりだったが、いやいや、ぜんぜん聞けていなかった。
だって、昨日と今日、はじめて「ああ、ピアノってこういう音なんだ、こんなふうに弦を響かせる楽器なんだ」ってわかったんで。
じゃあ、これまでは「鍵盤押す → ドが出る」って、そうそう、「自動販売機のボタン」やってたなと気づいた。
コーヒーのボタンを押したら → 缶コーヒーが出てくる。
ドの鍵盤を押したら → ドが出てくる。
はああ、「ボタン押す練習」しかしてなかったわ。
なんとなく、上っ面だけ「らしいような強弱」とかはちょっと付けていたけど、それはまったく「偽モノ」。
なんだろ、たとえば、写真をトレースして、「自分でイチからデッサンしました」みたいにゴマかしているような感じ。
あと、もひとつ、思い出した。
ピアノの先生が語ってくれる「物語」が、すごく真に迫ってきたんだよね、去年の秋ぐらいから。
先生は「イメージが大切ということ、はじめからずっとお話していますよ」と言っておられたが、す、すいません、いまごろになって、やっとわかってきたというか、沁み込んできたというか。
そんなこんなの積み重ねで、おう、ようやく臨界点を超えたらしく、「ピアノの音は、どんなモノか?」がわかったような気がする。
あくまでも「気がする」だけだが。
いま、どの程度まで「聴くことができているか?」は、直接わからない。
わかるとしたら、それは「弾いてみて、どんな音を出せるか?」だろう。
「弦の響き」を聴き分けられて、はじめて「演奏で、どんなふうに弾き分けるか?」というフィードバックを返せる。
そのためには、もちろんテクニックも必要だけど。
しかしなあ、これまで長年、私はなにを聞いてきたんだろう?
まあ、CD聞くわな。YouTube聞くわな。ピアノも弾く。コンサートもまれに行く。
けれども、どれを聞いても、「ピアノの弦が、こんなふうに響いている」と、まったく認識できていなかった。
ショックだなあ。
しかも、あさってが発表会でっせ?
真っ青。
根本裕幸さん(カウンセラー/作家)が、よくこう言っておられた。
「いま、できることをする。それだけです」
そうだなあ、「いま聞き分けられる範囲」で、弦を響かせる練習をするしか、しょうがないなあ。