「母が好きなこと」は、私ももちろんよく知っている。
でもさ。
「好きなこと」と「ヤりたいこと」は、じつはちがうかもしれないと気がついた。
私はといえば、けっこう「ヤりたいこと」がワサワサある。
で、そういうの、ヤってる最中って、すごく没頭しちゃって、その「没入感」が心地いい。
山登りもそうだったし、ピアノもそう。
べつに本を読んでも、ぐいぐい惹き込まれていって、それがすんごく楽しい。
いまは、ちょこちょこしか読めないが、現在吉村昭の「漂流」にどハマりしている。
難破した船が、絶海の孤島に流れ着き、その無人島で12年間生き延びた人物が主人公。
これは実話であり、その凄絶な生きざまに呆然としてしまう。
とまあ、本や音楽ぐらいで、私はいくらでもヒマがつぶれてしまうのだ。
なので、ついうっかり「母も、そういうモノに出会えたら、ずいぶん楽しくなるんじゃないか」と思ったのよ。
ただ、母も90歳。
それだけ生きてきたら、もちろん「好きなこと」はわかっている。
歌うこと、テレビで野球や相撲、歌番組を見ること。
いまは、ここらへんだ。
むかし若かったころは、買い物が大好きで、洋服を大量に買っていた。
だが、母いわく、
「服とかカバンはねえ、買ったらうれしいし、持って帰って見ていたら楽しい。
でも、めったに着ないし、使わなかったの。
いま思うと、おカネのムダ使いだったわ」
そうだよねえ。
私も、たまにネットで衝動買いしてたけど、まあ、モノではなかなか「しあわせ」になれない。
それは母も自覚していて、もう通販の買い物もヤめつつある。
じゃあ、母はどうしたら「しあわせ」になれるのか?
「好きなこと」としてテレビはある。
しかし、それは「ヤりたいこと」じゃないんだよ。
あくまでも、私の感じかただが、「ヤりたい」という「前のめりになって、つかみに行く貪欲さ」がないと、どうもつまらないんじゃないか?
母に「欲」がないわけではない。
母がほんとうに欲しいのは、じつは「お母さん」。
ま、むかしからそうだったけど、相変わらず私に「お母さんになってほしい」という欲は、ギラギラさせている。
だもんで、「春ちゃんの姿が見えないだけで、寂しくてしかたがない」そうだ。
同居していても、私が家事その他で、母のそばを離れないといけないが、もうそれだけで「寂寥感に襲われる」という。
それほどに、母が6歳のとき、実母に捨てられたキズは深い。
けどさ、私もそこまで母のメンドーは見られない。
「自分にデキる範囲」で、母の余生をサポートするのが関の山。
じゃあ、結局母は「不幸のどん底」のまま、一生終えないといけないのか?
それが、意外とそうでもないと気づいた。
重要なカギとなったのは、母の「表情」。
母がどういうときに「笑みを浮かべているか?」に注目したのだ。
そしたら、「おいしいモノを食べているとき」に「満面の笑み」になっていると判明。
しかも、そのおいしいモノって、たいていセブン-イレブンで買ったモノだった。
じっさい母は「セブンのモノって、なんでもおいしいねえ!」としょっちゅう感激している。
なんだ、そうか。
母ちゃんのしあわせって、「セブン-イレブン」だったんだ。
まあ、野球も相撲もずーっとやっていない。
でも、セブン-イレブンは365日24時間やっている。
毎日でも食べられる。
私は食に関心がうすい。
なので、「食べモノでしあわせになる」ってことに、意表を突かれてしまった。
けれども、母のしあわせそうな笑顔を見ていると、なるほど!と納得。
だれもがすべて、「ヤりたいことで、しあわせになる」とは限らないのだ。