今朝、朝食の後片付けをしているとちゅう、母の部屋から「コトン」という音が聞こえた。
あ、たぶん母がコップを倒したんだな。
お茶をこぼしたんだろう。
こういう場合、母はきっと、こぼしたお茶を「自分で」拭こうとするにちがいない。
そのためには、シルバーカーから片手を離してしまい、容易に「転倒につながる」という危険を察知できずに!
ややあって、「春ちゃ~ん」という母の声がする。
部屋へ行くと、母は「ごめんごめん、お茶こぼしちゃった」と、あわてふためいて、ティッシュでテーブルを拭いている。
私「はい、ストップ。
もうなにもしないでね。
ちゃんと両手でカートを持って、イスに戻ろうね」
母「ごめんね~、こぼしちゃって、ほんとごめんね」
私「お茶なんて、いくらこぼしてもいいから。
それより『自分で拭こうとしているコト』を謝ってほしいよ」
私はついイライラして、ねちっこく母を叱る。
「まあね、要するに『コケない』と思ってるんだよ。
このぐらいだいじょうぶだって。
でもさ、『片手を離す → 転倒 → 骨折 → 寝たきり』になっちゃうって、もっと切実に考えてね。
なにがあっても、シルバーカーから両手を離さないって、すごく意識しないと」
母「ごめんね~、だから春ちゃんを呼んだんだけど」
「でも、いま現に、片手離して、テーブル拭いてるでしょっ?!
拭く前に、私を呼ばないとっ!」
「ごめんね~、ごめんね~」
あーあ、90のばあちゃんを、クドクド叱りつけちまったあ。
あーあ、お母さんが子どもを叱るときも、こんなの、あるんかねえ。
「あんたのタメを思って言ってんのよっ!」って、正論めいたモノを振りかざしてさあ。
まさに私も「寝たきりになってしんどいのは、母ちゃんだよ」なーんて言ってるけどさ。
ちゃうちゃう。
寝たきりになって、困る(と思っている)のは「私」。
しんどくなる(と思っている)のも「私」。
あのー、そもそも「寝たきり」って、良くも悪くもないんだけどね。
寝たきり父ちゃんを介護していた時期もあったわけなんで。
う~ん、ほんまに私自身が気をつけないと、
「介護者はエラいんだ。被介護者は感謝せえよっ!」って支配しそうになる。
いや、そんなの、対等だよ。
だって、母のおかげで、私の生活は「規則正しく整然と変化」したのだから。
明確なカタチを取っていないので、わかりにくい恩恵だ。
けれども、ひとり暮らしだったときと比べて、いろんな面で「いい変化」が生じている。
そこそこ忙しくなったので、ネットでムダな買い物をまったくしなくなった。
ヒマつぶしに、だらだらユーチューブを見なくなった。
ブログだって、日中に書いてしまって予約投稿している。
スキマ時間をこまめに拾って、ピアノの練習もやっている。
これらはすべて「母による好影響」だ。
それって、私が、母の「几帳面さ」にあこがれて、みずからマネた結果だ。
だから、「介護するヒト」「介護されるヒト」なんて、まるで関係ないわけで。
ああ、もっとちゃんと「ありがとう」って言おうかな、母ちゃんに。
母は、しょっちゅう私に「ありがとうね」「感謝です」「いつも親切ね」と言ってくれる。
そう言われると、もちろんうれしい。
と同時に、私は、ついうっかりエラそうになってしまう。
まるで、自分が、母を生かしているかのように、尊大に傲慢になってしまう。
はあっ?! なんなんや、それっ?!
あのさ、そろそろ「つけあがる」のは止めんとな。