入院している母の状態は、まったくわからない。
病院「家族は、電話をかけてこないでください」という。
てなことに、私はイラだっていた。
だが、ネットを見ていると、
「危篤や容体悪化のときしか、面会できない」とか、
「とうとう最期のときも、病院のなかに入れなかった」という記事まであった。
とすると、こんどの病院は、
「なにかあったときは、病院から家族に連絡します」と言っているが、それはもしかすると、
「危篤になったら、電話しまっせ」ということかもしれん。
そんなアホな……と思ったが、はあ、そういうのが当たり前のご時世なんだ、といまごろ気がついた。
まあね、病院だってイケズでやってんじゃない。
感染を防ぐための苦渋の策だろう。
で、とりあえず洗濯物の受け渡しに、病院へ行った。
そしたら、母の階の師長さんが、1階に降りてこられた。
「せっかくだから、ちょっとだけ……」と、私にコソッとささやいてくれた。
ええっ?! 母に会わしてくれるんっ?
へええ、すごいと驚きながら、母のベッドのそばに行ったら、絶句した。
母はすでに、酸素吸入を受けていた。
どうして、ここまで悪化しているのに、なんの連絡もないのだっ?!
「……母ちゃん」と恐る恐る呼びかけると、
母は、ゆっくりとうっすら目を開けた。
少し口元がゆるんだが、声にならない。
懸命に聞き取ると、母は、かろうじて、
「ずっと……たべられない。
わたし……もうことしで……おしまいなの?」と、途切れ途切れに言っている。
「いや、そんなはずないよ。
先生は?
S山先生は、なんて言ってるの?」
「……せんせい……いちども……きてくれないの」
「えっ?! それはヒドすぎる。
平均寿命を超えているからって、点滴だけで済ますなんてっ!」
「胃ろう……してほしい。
まだ……春ちゃんと……いっしょにいたい」
「わかった、すぐに文書出そう。
事前指示書、作ってくるから待ってて」
私は、猛ダッシュで自宅に戻り、事前指示書のフォームを印刷して、また病院に戻った。
ちなみに、内容は、延命治療について、ひとつひとつ「希望する・しない」のチェックがあるヤツ。
ハラ立つから、ぜんぶ「希望する」にチェックしてやった。
冒頭に「S山先生 御侍史」とデカい字で書いておく。
あとは、母のサインをもらうことになる。
受付で、憤然と、
「師長さんをお願いしますっ!」と呼ばわる。
おいっ、末梢点滴だけでいいとは、母も私も、ひとことも言ってないぞっ!
おまいら、母ちゃんを餓死させる気かよっ?!
師長さんは、
「そういうのは、うちの病院の書類があるので」と言って、しばらく待つと、その書類を持ってきた。
見ると、そいつは「不慮のなにかで、どうかなったとき、それを承諾します」みたいなヤツ。
ちゃうちゃう。
私「そうではなくて、延命治療を受けたいんです。
たとえば、可能ならば、胃ろうをしてもらいたいんです」
私は、事前指示書の項目のひとつにある「胃ろう」を、赤ボールペンで囲った。
私「母の意思表示を、文書としてちゃんと提出したいんです」
師長さん「そんな……こんなのは、出してもらったことがありませんよ」
「前例のありなしは、関係ないと思います。
あくまでも、本人はこういう考えだと、現時点で示したいんです」
「いや、困ります。
まずS山先生に、娘さんが会ってから……」
「いいえ、私じゃありません。
患者本人の母が、病院側に、自分の意思を伝えたいんです。
あの状態では、本人はできないでしょう?
私は、その代弁者としての義務を果たしたいのです」
師長さんは、おだやかで、柔軟的なかただった。
「わかりました。
じゃあ、お母さんにサインしてもらいましょう」
面会禁止のはずなんだが、また私は、母の病室に入れてもらえた。
師長さんは、ベッドの上半分を上げてくれ、母が記入しやすいように、事前指示書をティッシュの箱で支えてくれた。
母は、非常に緩慢な動作で、それでもボールペンで、日付と署名をしてくれた。
私「ね? ここの文章に、胃ろう、入ってるからね。
もうちょっとがんばろうね」
師長さんに、事前指示書のコピーを2枚お願いして、1枚はクリアファイルに入れて、母の枕頭台に置き、1枚は私の控えとした。
そして原本は、師長さんからS山先生に渡してもらうよう依頼した。
師長さん「でも、S山先生は、毎日来られないし、私は明日あさって休みだし」
クソうるせー野郎だなっ!
てめえ、引き継ぎとかもできねーんかよっ?!
まあ、ここまでさせてもらったらヨシとするか。
あんまり噴火するのもアレなので、私は、
「はい、できるかぎりでけっこうです。
とにかく、なんらかの方法で、S山先生に、この事前指示書をお渡しください」と引き下がった。
ふう。