こちらの病院は、外部者制限がよりいっそうきびしい。
詰所の奥が病室だが、そこから先は、家族も入れない。
しかも、面会は「すべて禁止」。ずっと禁止。
ただ、手術の前後、本人がストレッチャーで運ばれるときだけ、ほんの一瞬会えるらしい。
す、すんげえ対策だなあ。
ウチは、とんでもなく難しい手術じゃないけど、もっとタイヘンな患者の家族は、たまったもんじゃないな。
とにかく、母ちゃんは、車椅子に乗ったまま、奥のほうに運ばれていってしまった。
で、入院荷物を、まだクルマに置いたきりだったので、私は階下に降りて、カートを借り、わりと遠い駐車場まで往復して、やっと詰所に荷物を預けた。
手術開始時刻は、まだわからない。
たぶん、前の手術が終わり次第、呼ばれるような感じだった。
看護師さんに指示された場所で、しばらくぼーっと待つ。
窓からは、私がよく知っている山が見えた。
知ってはいるけど、登りそこねた低山だ。
母も好きな山なので、教えてあげたいと思ったが、あ、そういうのもデキないんだ、とがっかりする。
なかなか呼ばれないので、また吉村昭「間宮林蔵」を読む。
あとちょっとで読み終わる。
林蔵の終焉も近い。
これが終わったら、胃ろうの本(看護の現場ですぐに役立つ 胃ろうケアのキホン)を勉強せんとな。
母ちゃんには、生き延びてもらうんだから。
んで、トイレに行きたかったのをガマンして、声がかかるのを待っていた。
しかし「決壊寸前」になってきたので、よし、行っちゃおうとウロウロしていたら、担当の看護師さんがすっ飛んできた。
看護師さん「すみません、すみません、ついさっきお母さまは、もう手術に行かれました」
え? そうなん?
若い看護師さんは、気の毒なほど平身低頭あやまっていた。
「いやいや、いいですよ」と私。
きっと、手術室から連絡があって、大急ぎで運んだにちがいない。
それでなくても、胃ろう造設を頼んでしまった負い目があるので、もう、ちっともかまわない。
ただ、手術から戻ってくるときには、見逃さないように、私は、エレベーター前のイスに座って待つことにした。
相変わらず「間宮林蔵」なんだけど、さすがに落ち着かねえ。
母ちゃん、かわいそうにな、いろんな注射も痛いだろうし、また鼻からカメラ入るし、点滴もするだろうし。
けれども、あと少しで「胃袋ピアス」を作ってもらえる。
がんばれ!
母が搬出されたのは、午前11時45分だったとのこと。
内視鏡手術そのものは15~30分で終わるらしい。
その前後の処置もふくめて、1時間もかからないと聞いていた。
12時25分、さきほどの看護師さんがやってきて、
「もう終わるそうです。ごいっしょに下まで行きますか?」と言ってくれた。
そりゃありがたい。
私は、看護師さんといっしょに、内視鏡検査室のある階まで降りて、そこで待つ。
「もう終わる」ということは、そうか、無事胃ろう造設ができたんだな。
つまり、胃袋のなかには、がんも潰瘍もなかったんだ。
12時33分、母を乗せたストレッチャーが運び出されてきた。
母は、精根尽き果てた様子で、目を閉じてぐったりしていた。
しかし、私が「母ちゃん、よくがんばったね」と声をかけると、
ぱっちり目を開き、「ありがとう」と答える。
そして「痛かった」と言う。
「そうか……、痛かったの?」
母「痛かった」
そう言いながら、私の手をぎゅっとつかんで離さない。
そのあいだも、ストレッチャーを看護師さんが移動させている。
大きく目を見開いて、「痛かった」と「ありがとう」を繰り返す母。
看護師さんは「鎮静剤を入れているんですけどね」と言った。
あっという間に、病棟の階に着いてしまい、しかたなく手を離す。
ストレッチャーで奥へ運ばれながらも、母は力なく手を振っていた。
「ありがとう、ありがとう」とお礼を言う母が、ふびんに思えてしかたがなかった。
手術の翌日、つまり今日になって、昼すぎ、見慣れない番号から電話がかかってきた。
どうしよう、出ようか?と迷っているうちに、電話が切れた。
番号をネットで検索しても、悪い情報はない。
数分後、またその番号からかかってきて、こんどは出てみたら、
うわっ、手術をした先生からだった。
「胃ろう、作成できています。明日は転院と聞いておられますね。
抜糸はどこでもできますから」
私はへどもどして「はいっ、はいっ」と返事をするのがせいいっぱい。
夕方には、師長さんからも電話があった。
退院について、こまごました手続きをていねいに教えていただいた。
また、母の状態も良く、「自家用車で帰ることができますよ」とのこと。
ふう、よかったあ~
痛がっていたから、どうなっているか心配だったが、たぶんだいじょうぶそうだ。