「〇〇にしあわせになって欲しい」→ちゃうちゃう、「しあわせになりたい」のは「自分」じゃんw

「ええかっこやめれ」という文字と、「心配する女性」のイラスト 心理学っぽいあれこれ

「働くのが、ものすげーしんどかった」んだけど、今年4月にパート辞めて、ぷーになって、ぶらぶらしてたら、まあ、とくに「なんかしんどいこと」ってなくなった。

って、まるで、自分ひとりでスッキリしたかのようだが、いやいや、いま私がケロッとしていられるのは、カウンセラーさん方のおかげでして。

やっぱり、私のように「すんなり社会になじめない生き物」って、カウンセリングで根っこを掘ってもらって、カウンセラーさんに「鏡」になってもらって、ようやく自分の姿がわかる。

そうそう、私、いつも「カウンセラーさんって『鏡』になってくれるなあ」と思う。




ま、ほんとの鏡を見ているときもそうだよね。
自分で、自分の顔を鏡で見ているとき、「ソレ用の顔を作っている」でしょ?

なので、ふつうは「自分の素の顔」とか「素の表情」を見る機会って、まずない。

もし、見ることができたとしたら、たとえば、知らないうちにビデオを撮られたとするならば、きっと、思っていたよりも「ずっと老けていて、もっとヘンで、イヤな顔つきをしている」んじゃないか?

自分で鏡を見ているときって、おもくそ「修正」しているわなあ。

だから、それは「見た目」にかぎらず、「生きかた」もおんなじでしょ。

「生きかた」もたぶん、ええかっこし過ぎなんだよ、私。

だけど、カウンセリングを受けると、カウンセラーさんが「鏡」になってくれるから、「ほんまのショボい自分」がだんだん見えてくる。

「ほんまは一円玉」なのに、他人に「一万円札に見られたい」って、虚勢張ってたとか。

ただでも、私の場合は、だいたい「ええかっこしい」にぜんぶ収まる。
それ以外の原因って、たぶんなさそう。

働くのがずっとウマくいかなかったのも、「ええかっこできる仕事じゃなかったから」ってのが元なんだよ。

学歴にこだわっていたのも、「ええかっこしたかった」から。




要するに、他人から「すごいねえ!」って、言ってもらいたいだけで、生きとりました。ちーん。

まあ、そんなふうに、だんだん「ほんまは一円玉やってんね、おまい。そのくせ、万札のフリって、そりゃムリじゃん」ってわかってきた。

だけどね、私は「生きるのがしんどい」ってのは、なかったのよ。
ええと、ババアになってきて、「生きてるだけで、カラダがしんどい」ってのはあるけど。マジしんどい。

でも、「生きるのがしんどい」とか「生きづらい」とか、それ、ぜんぜんなし。

どっちかっつーと、「生きてたら、いろいろおもろいねえ」なんだよ。
仕事以外のことは、おもろいこと満載で、ピアノだの山だのネットだの、お楽しみはメジロ押しでさ。

なので、「生きるのがしんどい」系のひとたちの悩みは、よくわからんのよね。

その「系」に分類できるかどうか、それもわからんけど、ウチの妹は「『自分の記憶』を他人から消したい」系なのよ。

よくよく訊いてみると、「自分を知っているひとの記憶のなかから、『自分の記憶』を消したい」らしい。

幼少期のころから「生きていることに違和感」があって、高校生ぐらいに、はっきり「『自分の記憶』をひとから消したい」カタチになったそうだ。

あまり聞いたことないよね。




前はね、妹がそういう話をしはじめると、「わあ、聞きたくないな」って、私、ソワソワしてたの。
さらに、「T子ちゃんが、もっと晴れ晴れ生きられるといいな」と思っていた。

けれども、いまはもう、そう思わないな。

ええと、「晴れ晴れしたかったのは、自分じゃん!」ってわかったなあ。

「自分が晴れ晴れしたかった」のに、それを妹に投影して、「T子ちゃん、晴れ晴れしてね」って、じつは「妹をコントロールしたかった」と気づいたよ。

いやあ、まあ、「だれかに、ホニャララになってほしい」って、みごとに支配だねえ。
そのホニャララ、ほんとは自分が欲しいんだよなっ?!

さて、おかげさまで私は、いま現在「晴れ晴れ」している。

そしたら、妹が「『自分の記憶』を消したい」って言ってても、「ふうん」ってなった。
妹は「晴れ晴れしていない」かもしれないが、どっちでもよくなった。

まあ、妹なりに事情があって、「『自分の記憶』を消したい」んだよねえ。
そう思うことで、均衡がとれているなにかがあるのかもしれない。

でも、私がどうこうできるモンじゃないからね。

どうこうできるのは、「自分のこと」だけ。
妹も、ちゃんと自力で「自分のこと」に対処できる能力があるのだ。

だから私は、せっかく「晴れ晴れ」したんだから、もっと「のびのび」とか「へらへら」を拡充していこうと思う。

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