当時、小学3年生だった私は、「桑の葉っぱ」が欲しくてたまらず、半狂乱になっていた。
学校の指導で、育てているおカイコなのに、とつぜん「これからは、1日2枚しか葉っぱを渡せません」となってしまった。
学校の先生からは、「それで、だいじょうぶ」という説明は、なにもなかった。
だから私は、ひとりで勝手に、恐れおののいていた。
ダメだ。
このままじゃ、おカイコが飢え死にする!
ウチにいるおカイコは、もう最後の「5令」になったばかりで、1匹1枚の葉っぱを、シャリシャリすぐに食べつくして、「ぜんぜん足りない」と言いたげに、首を振っていた。
私は、朝から晩まで、どうしたら桑の葉っぱを増やせるのか、答えの出ない悩みにさいなまれていた。
だもんで、きっとゲッソリした様子で、ピアノのレッスンに行ったんだろう。
春子ちゃん、どうしたの?
先生……
葉っぱを2枚しかもらえなくて。
おカイコさんが、死んじゃう。
すると、先生は、こともなげに、こう言われた。
あら、桑の葉っぱなら、ウチにあるわよ。
えっっっ?!
さすがに、9才のガキでも、ドギモを抜かれた。
な、なんで、ピアノの先生のウチに、桑の葉があるんだろう?!
しかし、そんな疑問がアタマをよぎったのは、ほんの一瞬だった。
それよりもなによりも、「その葉っぱが、どのぐらいあるのか?」が、猛烈に気になった。
ピアノの先生は、私をキッチンへ連れて行ってくれた。
ほら、これよ。
先生が冷蔵庫を開けると、そこには、大量の桑の葉っぱが、入っていたのだ!!
こ、こんなところに、こんなにたくさん宝物がっ!
いまにして思うと、ホウレンソウ一把分ぐらいだろうか?
先生は、そのぐらいの葉っぱを取り分けて、袋に入れて、私に持たせてくれた。
出典 ほうれん草の栄養素が失われにくい保存方法とは?|HugKum
私はあまりに驚いて、まるで魔法でも見ているかのようで、ろくすっぽお礼も言えなかった。
ピアノのレッスンも、なにも覚えていない。
覚えているのは、桑の葉っぱをたっぷり抱えて、先生のお宅をあとにしたことだけだ。
ウチに飛んで帰ると、すぐさまおカイコに、その葉っぱをあげた。
2匹のおカイコは、みずみずしい葉っぱにかぶりついて、シャクシャク食べつづけた。
追加の葉っぱは、まだまだある。
その日の夜になっても、シャクシャクという小さな音は、途切れることなく聞こえていた。
貴重な桑の葉の残りは、しおれてしまわないように、冷蔵庫へ入れるつもりだった。
しかし、それはきっと、母ちゃんがイヤがるだろう。
私が、葉っぱを冷蔵庫に入れようとすると、やっぱり、母ちゃんが金切り声を上げた。
そんな汚いモン、冷蔵庫に入れないでっ!
ピアノの先生は、入れてたよっ!
どうせ、すぐ死ぬのにっ!
と、母ちゃんは、憎々しげに私をにらみつけた。
私は、「これだけはゆずれない」と徹底抗戦のかまえで、母ちゃんを無視して、桑の葉を冷蔵庫に押し込んだ。
それから2~3日のうちに、おカイコはメキメキ肥え太ってきた。
葉っぱは、こっそりチリ紙(まだティッシュはない時代)で拭いてきれいにして、おカイコにせっせと与えた。
チリ紙も、使い過ぎると怒られるので、服のポケットにしのばせて、あとでトイレへ流した。
「おカイコ飼育」は、クラスのみんなも楽しそうで、自分のおカイコを、学校に持ってくる子もいた。
ある男子が、自分のおカイコを、得意そうに見せていた。
もう繭を作るのも近いころだし、みんなに見せたかったんだろう。
私は、その子のおカイコを、チラッと見て、
あ、ウチのおカイコのほうが、ずっと太っている。
と、安心した。
小学生のときも、友だちはいなかった。
ピアノの先生から「闇・葉っぱ」をもらったことは、だれにも話していなかった。
私は、むかしもいまも、自分のことしか考えていない。
ウチのおカイコさえ、元気だったら、それでいい。
ヨソのおカイコが、ヤセていようが、知ったこっちゃない。
私は知らん顔して、ひっそりウチにかくまっている、2匹のおカイコに、闇・葉っぱをせっせと食べさせた。
おカイコは、はち切れんばかりに、まるまる肥えてきた。
体の節々がちょっとくびれているものの、それ以外のヒフは、まるで風船のように、パンパンに膨れ上がっていた。
▼この画像のコより、もっと太っていた。
そうしたら、あるとき、1匹のおカイコが、葉っぱのうえで、よろめいた。
たぶん、葉っぱのべつの部分をかじりたかったんだろう。
でも、あまりに太りすぎていて、ヨロッとなったあと、そのおカイコは、コロコロと転がってしまった。
お腹の側には、ちっちゃい足がたくさん並んでいる。
そのお腹と、すべすべの背中を、くりんくりんと交互に見せながら、おカイコは小さい容器のなかを、端っこまで転がっていった。
その光景が、なによりもうれしかった。
ああ、こんなに丸々と育ってくれて!
転がっちゃうほど、よく太ってくれて!
私は、ちょっと笑いながら、そのコをそっと拾いあげて、葉っぱのうえに戻してやった。
おカイコは、べつに恥ずかしがりもせず、またシャクシャク葉っぱを食べはじめた。
やがて、おカイコたちは、ぱったり食べるのをやめた。
せっかく長々と伸びた体長をちぢめ、めいめいアタマをぐるぐる回して、繭を作りはじめた。
繭が、だんだんぶあつくなると、寂しかった。
もう、あのコロコロには、会えないんだな。
シャクシャクの音も、聞けないんだな。
ピアノの先生からもらった桑の葉は、まだ余っていた。
でも、もうだれも食べないから、捨てた。
10日ほどして、繭から出てきた蛾は、2匹ともオスだった。
オスの胴体は、メスより細めだ。
出典 左がメス、右がオス|カイコガ|みんな知ってる?未来に羽ばたくカイコ
幼虫のときは、あんなに太っていたのに。
2匹の蛾は、ひよひよと頼りなげに、羽を動かしながら、容器のなかを這いずり回っていた。
おカイコの成虫は、なにも食べない。
食べない生き物を見ているのは、つらい。
だが、一週間もすると、動かなくなった。
ほっとした。
前回とおなじように、庭の隅っこに埋葬した。
ピアノの先生が、どうしてあんなにたくさん、桑の葉を持っていたのか、もうわからない。
「桑の葉茶」というのがあるらしいから、もしかしたらお茶とか、作られるつもりだったのか。
けれども、あんなに驚いたことって、はじめてだったな。
「桑の葉っぱ」で悩み抜いていたら、まさか、ピアノの先生から、すぐにもらえるなんてねえ。
すっごくサバサバした先生だったから、そのあと、レッスンで、葉っぱのこともおカイコのことも、なんにも聞かれなかったよ。
でも、先生のおかげで、おカイコはまるまる太れたんだよね。
私が小学生のとき、いっちゃんうれしかった出来事は、「あのとき」なんだよ。
あの、太りすぎたおカイコが、コロコロ転がった「あのとき」だねえ。
いやあ、うれしかったねえ。
だとしたら、「しあわせ」って、「だれか(虫でも)が、『よく食べて太る』のを見る」だけでも、手に入るモンなんだろね。