「調律」とは「音程を整える」だけではなくて
前回の調律もそうだったが、調律師さんは、「調律」だけではなく、それ以外の調整もしてくださる。
前のときは、「レペティションレバースプリング」を調整していただき、鍵盤がまるで指に吸い付くようなタッチに変化した。
そして、ダンパーペダルの反応もすごくよくなっていた。
今回は、「もっと音の輪郭がはっきりするように」調整してくださった。
調律師さんは、とちゅうで、ご自分のクルマに、機材を取りに行かれたりしていた。
そして、結局 4時間以上もかけて、いろいろと整えてくださった。
調律師さんから聞ける楽しいお話
いやあ、そこまでしてもらわなくても、とくに、私みたいなシロウトには、なんにもわからないのに。
すると、調律師さんは、こうおっしゃる。
いまの、このピアノが出せる「完成形」が、思い浮かぶんです。
すると、どうしてもその音が出せるように、あれこれやってみたくなるんです。
そのことばをお聞きして、ああ、調律というのも、アートなんだなあ。
とてもクリエイティブなお仕事なんだと、ひどく感心した。
ひと通り調律を終えられたあと、私は、モーツァルトのソナタを、緊張しながら弾いてみた。
ああ、ハッキリちがう!
クリアで、すうっと透明な音が響く。まろやかでやわらかい音色。
低音部分は、ずぅんと深みが増していた。
すばらしい音ですね。
それに、私でも、コントロールしやすくて、小さい音が出しやすくなっています。
調律師さんは、お話好きでもおられる。
今日もまたいろいろと、「ココだけのお話」とか「じつはこうなんです」という、耳をそばだててしまう貴重なお話をうかがった。
で、ブログの読者さんには申し訳ないのですが、そのほとんどが「ナイショのお話」なんです。
すいません、思わせぶりで。まあ、ピアノのお話です。
調律師さんも、もちろん慎重で、たとえば「個人が特定される」ようなことは、決しておっしゃらない。
けど、なんとなく「もしかして、あのヒトのことかなあ?」と、憶測しながら、私も聞く。
若い〇〇〇〇〇についても、思わず身を乗り出してしまうようなお話を聞かせてもらった。
へええ、ほうう、まさか?!、そ、そんな大胆なっ?!、それも才能っ?!とか、はあ、おもしろすぎたし、すごく勉強になる。
調律師さんは、こんなに苦労されている
と同時に、お仕事をするうえで、苦労されているお話もたくさんうかがった。
私は、まったく勉強不足で、調律師さんといえば、映画の「ピアノマニア」を見たくらいで。
2009年オーストリア・ドイツ合作、ピアノ調律師のドキュメンタリー映画。
主人公は調律師。有名ピアニストもおおぜい出演していて、とても興味深い。
私は映画って、ほとんど見ないのだが、「ピアノマニア」だけは、映画館へ見に行ったし、DVDも買った。
いやね、引退前のブレンデルが、ほんのちょっと出演しているからね。
調律師さんは、映画「ピアノマニア」や、それから本の「羊と鋼の森」についても、少し話された。
まあ、でも、それはだなあ、たとえば、「医師のひとが、医師の映画を見たら、どうでしょう?」みたいな感じかなあ?
「じっさいの現場の苦労」って、もっと「さまざまな次元」のご苦労があるんだよね。
「本質的ではないコト」も、ぜんぶ対応しないといけないとか。
いやまあ、そういう「苦労」って、どの職業のかたでも、おんなじかな。
カウンセラーさんだって、いざZoomでカウンセリングしようと思ったら、クライアントさんがウマくつなげなくて、カウンセリングが頓挫しちゃうとか。
カウンセリングとはなんにも関係ない、しょーもない事務とか経理も、やらんといかんとか。
私はといえば、自分は結局、そういう「本質にかかわるような仕事」をやれなかった。
ほんとは、そんな「専門性」だったり、「豊富な経験」だったりが必要な職につきたかった。
けれども、まあ、要するに私は「やる気も根性もない」から、タダの下流老人にしかなれなかった。
その下流老人が、専門家のご苦労をうかがっているうちに、徐々に「あること」に気がついた。
「わかりません」「教えてもらっていません」って、どういうこと?
私は、パートを転々としてきたが、どこの職場でも、
「教えてもらっていないこと」を、お客さんに訊かれたら、
『はあ? うっとうしいな、こいつ』って、すぐに思ったよ。
まあ、そうとしか、自分は思いつかへんのよ。
それに、たとえば、先輩パートさんに教えてもらうにしても、
おい、もっとていねいに教えろよ。
「私が」わかるように、教えろ。
おまいの説明じゃ、わからん、ボケ。
とか、いつも思っていた。
それが、自分では「標準」だった。
で、いまごろになって、急にわかったけど、そういうのって、
ぜんぶ、「他人のせい」にしてたなあ。
自分が、仕事デキないことを、
「教えかたが悪い」
「知らないことを訊いてくる、客が悪い」
と、本気で思っていたよ。
ありゃまあ。
それじゃあ、行きつく先は、「下流老人」だよ。
それに、ずいぶん周りのひとたちが、不快に思っていただろうねえ。
てか、私の「周りが、どう思おうが、知ったこっちゃない。勝手にせえ」って態度は、あんまりよろしくなかった。
相手のひとが、だれであっても、
もう少し、「ふつう」に接したほうがよかった。
と、いま、にわかに反省している。
ええと、調律師さんのお話と、つながらないかなあ?
具体的に書けなくて、すみません。
つまり、私のように「つっけんどんで、誠意もヘチマもない、エエ加減で無知なシロウト」が、ちゃんとした専門家とかに対して、きっとたぶん、不愉快な思いをさせただろうなあ、ってこと。
そういうことが、過去に山ほどあっただろうね。
みなさん、あからさまに怒らなかったけどね。
やっとわかったが、「わかりません」「知りません」「教えてもらっていません」ってのは、
完全に受け身で、ぜんぶ他人のせいにしている。
「自分で積極的に、なにかやろう」という意志がないんだよね。
知らなかったら → 知る努力をする
教えてもらっていなかったら → 教えを乞う
こういうのをやらないと、いつまでたっても、「私は悪くない。周りが悪い」って文句ばっかり言うことになるなあ。