90歳の母と同居して、約3ヵ月。
「母ちゃんが『満足できる余生』を過ごして欲しい」ということが目的だ。
なので、できる限り「母の好み、習慣、考え方」が反映された生活を実行するように心がけている。
もともと母は、
「子どもは、母親とおなじ行動や考え方をするのが当たり前」と思っている。
だが私は、非常に反抗的で、長年ずっと「自分の好き勝手に行動する」ワガママを押し通してきた。
それを、ようやっと悔いあらためたのが、ほんの数ヵ月前。
朝から晩まで、部屋の片隅に立てられた屏風の中にこもって、両親に対してひたすら反省すること1週間。
いやあ、親の愛の尊さにはじめて気づき、どれほど自分がバカだったのか、思い知らされた。
そして遅まきながら、せめていまからでも、高齢の母をお世話したいなあ。
などと、ガラにもなく殊勝なことをホザいておるが、難題もある。
母は、さまざまなことに対して「要求水準が高い」。
また、とても繊細でデリケートである。
で、記憶力がよく、観察力が鋭い。
ってことは、「自分の理想から、ごくわずかでもハズれていると、タイヘンなストレスを感じる」のだ。
さて、それでは「私」は、母のお世話係として適任だろうか?
いやいや、それがじつは問題でしてな。
ただし、「母が要求する水準」や「どれほど繊細であるか?」といったことは、かなり推測できる。
けれども「実行力」がまったく欠けている。
まあ、なにを実行するか?にもよるけど。
母は「時間管理が厳格」だが、意外にもこれはまったくOKだった。
私はこれまで長年、てか、身に覚えがあるのは、なんと中学生以降だけど、ずーっとグズグズダラダラウダウダ、基本的に「昼夜逆転修正不可能」生活だった。
だのに、時間を計ったり、日時を記録するのは大好き。
じゃあ、ホンマの私は、時間を管理したいのか、そうじゃないのか?
コレ、母のピシャーッと定められた生活時間に、自分を合わせてみたら、はれれ、快適じゃん!となった。
つまり、マジでびっくりしたけど、「ホンマの私」は、母と同じく「ビシッと時間管理」しているのが「好み」だったんですな。
おかげさまで、朝5時起床 → 夜8時45分就寝が、ふつうにデキるようになった。
ありがとう、母ちゃん。
あと、私自身の私用で外出ができなくなったが、コレもわりとクリアできそう。
ピアノのレッスンにちょっと未練があるけど、まあ、母ちゃんの安全のほうがはるかに大事。
また、食事内容をおんなじにすることも、ぜんぜんかまわなかった。
そして、毎日掃除もしているし、洗濯も週2回やっている。
ホレ、ずいぶんニンゲンらしくなってきたやん?
こんなふうに「私が生活を変える」というのは、カンタンに実現できる。
けれども、難題は「騒音を止める」「老いを止める」「病気を治す」「ビンボー」「過去の辛い記憶」といったたぐいだ。
これらを解決するために、ちゃんと動いて実行するのは、非常にむずかしい。
しかし、こういう問題こそが「母の不幸の源」なので、こいつらを放っておくのはマズいんだよね。
と、わかっていながら、どれも私にとっては手出ししにくくて、すいません、放置しとります。