自分のセッション記録をブログに書くつもりだったが、「抵抗」が強すぎた。書けないんだよね。自分の心の「闇」をあつかうので、やっぱり書く気が失せるね。まあ、「闇」じゃなくて「押入れ」ぐらいでもかまわないんだけど、少なくとも「自分」はぜったい見たくなくて「なかったことにしているモノ」は、そうかんたんにパアパア出せない。
けれども、カウンセラー役のヒトとモデレーターである認定カウンセラーのおかげで、とても深いセッションになった。んー、まあアレかなあ? ふたりが自分のウチにやってきて、押入れを少しばかり片づけてくれたような感じかな。
見られたくないモノを見られちゃって恥ずかしくもあるし、でもわりかしゴソッとなくなって唖然としてる。
さて、「相談者」としての役もまずまずやらせてもらって、カウンセリングのイメージが出来つつある。あくまでもいまの段階でのイメージだが、あんまりねえ、「スッキリ」はしないね。スッキリより「ショック」とか「ゲンナリ」「ガックリ」のほうが大きい。
カウンセリングってなにをどうする?っていろんな定義があるけど、ひとつには「闇や傷に光を当てる」というのがある。その「闇」とか「傷」を見るのがうえ~ってなるんだよね。一回「沼」に浸からないとダメだからね。ヘドロかき回さないといけない。
心屋仁之助さんが言ってたけど、「痰ツボの痰、飲ませるよ」
ほんっと、そのとおり。痰ってさっきまで自分の中にあったのに、一回出しちゃうとぜったい飲めないよね。あ、ゲロでもいいか。自分が見たくなくて抑圧してるモノって、まさに痰やゲロみたいなモノで二度と見たくないし飲めない。だけど、「抑圧したモノ=シャドー」も自分自身の一部だから存在を主張する。
「わしらもあんた自身なんや」ってことで「他人の姿」を借りてあらわれてくる。シャドーが多ければ多いほど、イヤなヒトが増えるし問題も出てくる。ええと、私もシャドーがたぶんテンコ盛りなんだと思う。
抑圧が強いヒトって、なんとなく表情でわかるようになってきたけど、自分もまさにそうだからね。やっぱり表情が険しい。笑わない。だからそばにいるヒトがくつろげない。離れていく。でも、ずっとそんなのはイヤだ。寂しい。やっぱり変わりたい。
そのためには、え?痰飲まないといけないの? それはそのとおりで、だからそれでも心理をやりたいってヒトたちは「変態」らしい。そんなに気色悪いのに、「心の奥の院」みたいなところを掘ってみたくて、好きこのんでやってるんだ。
大塚あやこさん「みなさん、マニアですからねえ」って言われていたけど、いやあ、私そうかなあ? そんなプレイほんとに好きかなあ?
なにせカウンセリングの勉強がぜんぜんはかどらなくてね。ついついピアノに流れてしまう。だって音楽はうつくしいから。
けれども、う~ん、そうだな。たとえば「不協和音」のように「不穏な音」を真に迫って響かせようと思ったら、そのためには「心の闇」を知っておいたほうがいいだろう。「闇に光を当てる過程」も身をもって体験しておいたほうがいいはずだ。
なので、ちっともやる気は出ないけど、音楽のためにカウンセリングの講座はつづけようと思っている。