いま私は、大塚あやこさんが主催しているカウンセラー養成講座に通っているけれど、もともと長くお世話になっていたのは根本裕幸さんである。
根本さんのところもカウンセラー養成を行なっているが、今年の講座の募集がかなり遅かったんだよね。私は去年、おふたりのうちどちらかの養成講座に行こうと思っていたが、告知が早かったのが大塚さんだったので、早々に申し込んで決めてしまった。そして大塚さんの講座でよかったといまは思っている。それにしてもぜんぜん勉強してないけどね。
ただ、根本さんところのセミナーにこれまでかなり出席していたから、どうも根本さんの口グセはいまでもしょっちゅう思い出す。独特のゆったりとしたやわらかい語り口でよくこう言われていた。
「必要なことしか起こらないんですよ。どんなことが起こってもそれは必然なんです」
とてもじゃないけれど、私みたいな凡人はなかなかそういう境地に達することができない。自分にとって一見不都合に思えることが生じれば、ああもう、どうして私の期待通りならないのだろうとがっかりしたり腹を立てたりくよくよしたりしている。
自分の「手が小さい」ということもそのうちのひとつだ。もっと大きな手だったらラクにピアノを弾けたのになあとずっと思っていた。つまり「手が小さい」ということがピアノを弾くうえで「良くないこと、マイナスなこと、劣っていること」と信じて疑わなかった。
でも、それは本当のことだろうか? 正確には、「この私にとって」本当にそうなんだろうか?
▼シューベルト:即興曲第2番 変ホ長調 D899 Op.90
先週レッスンのとき、↑この最初の部分は弾けそうだとわかったけれども、
▼先生「ここからはちょっと厳しいかもしれませんね」と言われていた。
じっさいに練習してみてわかったけれども、このあたりは楽譜どおりに音を伸ばせない箇所がとてもたくさんあるとわかった。赤バツ印のところね。
▼さらに最後の部分、弾けない和音がたくさんある。一番下の音は省かないといけない。
まあ、オクターブが鍵盤の横からちょびっとしか引っかからないので、「オクターブの中に音が詰まっている和音」というのは私には弾けないのだ。てか、ホントはオクターブだけでも痛いのでできれば弾きたくない。
正直がっかりした。憧れていたシューベルト即興曲だけにかなり落胆した。もともとの和音は堂々としたりっぱな響きなのに、たったひとつ音を省くだけでずいぶん貧相に聞こえてしまう。手が小さいということで、なんだかズルをしているような気分にもなる。
でもさ、「この手の大きさ」って、そう決められて生まれてきたんだよな。この大きさがあんたにぴったりなんだよ。この手でピアノを弾いてみなよ。
ふうん、そうなんだって思った。「このぐらいの大きさ」ということにきっとなにか意味があるんだな。いま私にはわからないけれども、しかしこのままでいいんだと思った。「この手でピアノを弾くこと」が私にとって必要なことなんだな。
これまでレッスンのとき、弾けない和音があるとその都度先生に「すみません、すみません」ってあやまっていたけど、いやべつにあやまることじゃなかったな。「背が低くてすみません」ってあやまるヒトはいないよね。私はブスだけど「ブスですみません」ってあやまったこともないな。この顔サラしてしれっと生きてるもんな。
だから手の大きさのことも堂々としてたらいいんだ。弾けない箇所が多すぎて曲として成り立たないと先生が判断されたら、またべつの曲を選んでもらえばいい。
心理学では「ありのままの自分を認めましょう」ってとこにたいてい話が落ち着くけど、「ありのままの手の大きさを認めましょう」だったな。
よし、とりあえず自己否定をひとつ手放したぞ!