だれかに怒っているときって本当は寂しいから

カウンセリングの自主トレーニングをしていて、とくに自分が相談者役をやっているとき、思いがけずどーんと気づかされることがしばしばある。

あれは本当にふしぎで、つらつら自分のことを話しつづけているうちに、ふとなにかに気づくんだよね。まあひとりで過ごしているときも、なにやかや思いつくことはあるっちゃあるけど、カウンセリングの場で降ってくる気づきというのは、もっと鋭くはっきりとした形でやってくる。

こないだ私が相談者となって、ずっと話を聴いててもらっていた最中、わりかしイヤなことに気がついてしまった。あ、そういえば気づくものってたいがい「自分が見たくなくて隠していたモノ」なんだよね。見たくなくてフタしていて、いや私そんなん知りませんって空とぼけていたモノがセッションの場であぶり出されてしまう。

先日うげげっ!と思ってしまったのは、「ああ、私ってだれに対してもすごく攻撃的だなあ」ということだった。そう、ほんのささいなことでも即座にハラを立てて相手を攻撃していた。一触即発の状態だった。スキあらばだれかをぶん殴りたいほどの怒りをかかえていた。


心理学ではお決まりの答えになるが、こういった現象の大元はやっぱり親との関係だ。そっかー、私はまだまだそんなにも親に対する怒りを感じていたんだね。

しかし「怒り」というのは二次的な感情だ。「怒り」の奥には、さいしょに生じた元々の感情が存在している。それはたいてい「悲しみ」や「寂しさ」だ。けれども「悲しい」とか「寂しい」という感情と直接向き合うのがつらいから、その感情を「怒り」でフタしてしまう。なかったことにする。

でもね、どうしてそんなに悲しかったのか? 寂しかったのか?

それをよく考えてみたらね、要するに親と仲よくしたかった。親にいつも笑顔でいて欲しかった。それだけなんだよね。


いま私がハラを立てているヒトたちに対して、え?本当はそのヒトとどうしたいの?って考えたら、ポツンと「仲よくしたい、そうでないと寂しいから」という思いが、本当にポツンと現れてきた。

それに気がつけてよかったよ。

私はこのヒトとどうしたいのか?って考えたとき、結局私は「万人と仲よくしたい、万人に好かれたい」と非常に強く思っていた。それほどに寂しいんだなあ。

あらためて自分の寂しさを客観的に見ていたら、いや寂しいんだったらぶん殴りに行くのは、そりゃ表現のしかたがちがうだろ?と気づいた。

と同時にウチの親が、とくに母ちゃんがしょっちゅう私をぶん殴っていたけど、そうか、ありゃ寂しくてぶん殴っとったのかとわかった。私、学習してしまったんだな。「寂しいときは→ぶん殴る」「愛情表現→ぶん殴る」ってのが当たり前だとごく小さいころに信じてしまったんだ。

ついでに思い出したけれど、「くどくど叱る」というのもけっこう愛情なのかもしれない。むかし小学生のとき、ピアノの先生が年がら年中怒っていてね、つまんなかったよ。だからといってその先生のことを嫌いにはならなかった。でも笑ってほしいなっていつも思っていた。自分は練習しないくせにね。


本当にごくマレにしか笑わない先生で、しかしそんなかたでもハイドンのあのソナタのことは「ああ、あれね、チッキンライス、コロッケ、コロッケね」と言ってにっこりしてくれた。

うわっ、先生笑ってくれたーってドキドキしたよ。小学6年生ぐらいのときだったかな。そうそうやっぱり笑顔でいて欲しかった。ピアノの先生って母親を投影するからよけいにそう思っていたんだろうな。

しかしいま考えると、先生なりの愛情だったんじゃないかなと思ったりする。そして、すべての大元である母ちゃんも、本当はコドモを殴りたくなかったんじゃないかな。

まあそんなことがこの歳になってようやくわかってきたから、私も闇雲にハラを立ててぶん殴りたくなるなんてそろそろやめたくなってきた。

はい、本当は仲よくしたいだけなんです。寂しいから、みんな仲よしでいてください。

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