東京で開催されるカウンセラー養成講座「ビリーフリセット・リーダーズ講座」に出席するのも、これで4回目だ。ズームで参加したのは1回だけ。
今朝も5時前に起きて家を5時半に出発し、会場へは10時20分に到着した。5時間ほどかかっているけど、いやべつに慣れたよ。そもそもむかし全国津々浦々山登りで移動しまくっている時期があったしね。
そういうのを経験していると、東京へ行くぐらいはかなりハードルが低いよね。それといまは、毎週ピアノのレッスンに車で片道実質2時間弱で通っている。これも移動慣れに加担している。
まあ毎日行くところとかは近ければ近いほどいいけどね。いまのパート先は片道徒歩8分だから非常にラクチンである。この毎日ラクチンがあるからこそ、月に一度の遠出ぐらいむしろよろこんで行けるのだろう。
さて、養成講座受講生のみなさんとはすっかり顔なじみになり、こんな私でも臆することなくすなおに「どう?元気だった?」と訊くことができた。
「本当は嫌われているんじゃないか?」という恐れは、いまもゼロではない。けれども前回の講座でやったセッション中に、その「私は嫌われている」というビリーフは、2時間かけてふたりのヒトに揺さぶってもらったら、ちょっとぐらつきはじめた。
その数日後にはふしぎな偶然が重なって結局、「私は嫌われているんじゃない。そうではなくて、私が宇宙人だから、地球人のヒトたちは遠巻きにしているんだ」と腑に落ちたのだ。
グループのなかで近況報告をするとき、その話をしてみんなに聞いてもらい、そのあともあるヒトとふたりで「ヘンタイって言われるとうれしいよね」とか「ふつうじゃないほうがいいよね」とか言い合っていた。
そしたら大塚あやこさんがそのことを取り上げてくれて、「そもそも普通ってなんでしょう?」と問いかけた。
「そのヒトにとっての『普通』というのは、『両親の普通』なんですよ。
じゃあ『両親の普通』ってなんでしょう?
それはいい学校入っていい会社行って二十代後半ぐらいに結婚して子供二人持って定年まで勤めて老人ホームに入る。そういうのが『両親の時代の普通』だったんですよ。
でも、『いまという時代』はもうまったく変わっているんですよ。状況は刻々と変化しているんです」
そういうお話を聞くといつも私は、いやそう言われてももうトシ寄りだし、いまさらなにかできるわけでもないしと、決まって考えていたのだが今日は少しちがった。ちょっとばかりやわらいだ。
私がしょっちゅう、二十代三十代の若いヒトたちといっしょに、こういうセミナーに出席しているということは、もしかするとなにか意味があるのかもしれないなあ。いまのセミナーには五十代の人もおられるけど、しかしおそらく私が最年長っぽい。
「あと2年で還暦でー、……」ってのが私の決まり文句だったけど、なんだかやにわに二十代のヒトとも対等のような気がしてきた。そして二十代のヒトにも私の気もちがわかってもらえると信じることができた。
そう思えることができた根拠ははっきりしていて、これまで自主トレーニングをしているとき、若いヒトが相手であっても、そのヒトたちは私に対して、ごく当たり前のように「春子さんにもすばらしい未来があるはずだ」と信頼してくれたからである。
それでいいのかもしれないと、ふと思った。
今日はまた新しいワークを教わり、そして受講生同士でセッションをやりあった。こんどは「マインドフルネス」を取り入れたセッションである。
「マインドフルネス」とはよく聞くことばだが、私はぜんぜんわからなかった。いや、要するに「瞑想」のことである。「座禅している状態」とかをイメージすればいい。
具体的には「自分の内側に意識を向け、ただ気づく、観察する」ということ。そして、瞑想の目的は「潜在意識の声を聞きやすくするため」である。
おもしろそうでしょ? そう、おもしろかったよー。それに、すでに瞑想を毎日やっているヒトもいて、そのヒトの瞑想状態への入りかたが、ものすごく短時間であっという間に深い部分へ沈んでいって圧倒された。
なんでもそうだけど、百聞は一見にしかずで、「マインドフルネスってなに?瞑想ってなに?」って思ったら、「それやってるヒトを見たらいい」んだよね。
瞑想慣れしているヒトを見たらいいわけで、そしたらそのヒトが「無」に近くなって、ずーん、どーんって「ただ存在しているだけ」になっているのがよーくわかる。
で、また連想しちゃったな。川端康成の「眠れる美女」を。
瞑想状態に入り込んでいる女性って、まるで大きな人形のようでたいそう無防備であり、だから私はまた「あの薬で眠らされている若い女性」を思い出してしまった。
カウンセリングは、なかなかにあやういものである。見てはいけないものを見て、入ってはいけない領域にもどんどん入る。しかし、そこでしか出会えない真実がある。
もしかすると「音楽」もそういうものかもしれない。
日常では味わえない「なにか」に気づけるから「音楽」を聴く。「ああ、そういう真実があったのか!」と気づいて感動できるのが「音楽」かもしれない。
目を閉じてまるで眠っているような女性には、「いのちそのもの」が息づいていた。
ではその女性が目覚めたらどんなまなざしを向けてくれるだろうかと考えたとき、ああそうか、バッハのフランス組曲5番はそんなふうに弾いたらいいんだなあと悟らされた。