半個分の白菜に包丁を突き立てた瞬間、うわっ、これは刺しごたえがあるとたじろいだ。そうやすやすと底までグサッと貫けない。私にはかなり力を要する。まるでひとの身体のよう、いやどうなんだろう。骨の間隙を狙わないとダメだ、そうかんたんにブスブス刺せるもんじゃないんだ、なんでも、と思い知らされた。
一刺ししたあと、衝撃で包丁から手を離し、一歩あとずさりした。暗い灯りの下で、大きな白菜に包丁が突き立っている様はグロテスクだった。でも、やらねば。
「おまえはなんにもわかってないっ!」と怒鳴りながら包丁を抜き、すぐにまた突き刺した。「それで生きてけると思ってんのかよっ! おまえな、一日百円でどうやって昼飯が食えると思ってんだよっ?! えっ?!」と唸り声を上げながら何度も突き立てた。
そうなんだ。高校生のとき、一日百円しかくれなかった。母は料理が大嫌いでずっと弁当は作らない。どころか、中学生ぐらいから晩ごはんも作らなくなった。いちおう昼飯代として百円はくれる。毎日ほぼ忘れずに机のうえに置いてはある。しかし小遣いはない。
ウチが貧乏だとわかっていたが、出来合いの総菜と白いごはんは毎日買う余裕があった。母はもうご飯を炊くのも放棄していたが、美容院に行って奇矯な髪型をしていた。服やカバンも大量に買っていた。しかし、私の昼飯代としては百円しかくれない。毎日嫌がらせのように百円玉が置いてあるきりだ。
百円のうち、50円で牛乳を買い、残り50円でパンを買う。それが3年間つづいた。みんなの手前すごく恥ずかしかった。修学旅行のお金も出してもらえなかった。体操服を洗濯するのがイヤだというので、1学期に1度しか持って帰らなかった。長袖長ズボンジャージは買ってもらえなかった。真冬でもひとり半袖とブルマ姿だ。いつも寒くてひもじかった。
通知簿も見てもらえない。自分で勝手にハンコを押してまた学校に提出するだけだ。底辺校に通っているからというので、すべて無視されていた。
もともと中学を出たら働けと言われていたのを高校まで出してもらえたから、それはありがたいと思うべきなのだろうとこれまで考えていた。なんだかんだ理由をつけて母を責めないようにしてきた。
けれども、今日はちがった。
「あれは虐待だろう、てめえ、よくもやりやがったなっ!」「おまえが継母にいじめられたからって、なんで子どもに仕返しするんだよっ?!」「私がどんなにみじめな気分で学校行ってたと思う? わかんねーよなっ! おまえには永遠にわかんねーよなっ!」「ハンガーでメッタ打ちしたよな?! ハンガーぶっこわれてもまだぶん殴りつづけたよなっ?! おまえもこうしてやるっ!」
私は怒鳴りながら執拗に包丁を突き立てた。これでもかこれでもかと突き刺しつづけた。みるみるうちに白菜が無残に切り刻まれ、そこかしこに破片が飛び散る。
それでもブッスンブッスン包丁を突き立てる。そのうち私は焦点の定まらない目で台所の壁をながめながら、ずーっと母をののしりつづけた。叫びつづけた。手を振り下ろしつづけた。
どのぐらいそれをつづけていたのかわからないが、ふとこう思って手を止めた。
これ、母ちゃんだと思って見ないとな。それでないと意味ないよな。
私は、ズタズタになっている白菜のうえに、母の頭部を重ねて見ることにした。それはすぐに浮かび上がってきた。母はもう動いていなかった。目を見開いたまま動かない。なるほど、もう息絶えたってわけか。
それでも、私はもういちど刺したかった。とどめの一撃を加えたかった。「この野郎っ!!」と叫びながら、頸動脈あたりを狙って渾身の力を込めてグッサリ包丁を突き立てた。母の首からはダラダラと血が流れだした。
それを見て私は、ああそりゃもう死んでるからね、動脈切っても勢いよく出血なんかしねーよなと思った。
母の顔はまるでマネキンみたいであまり死体らしくなかった。低予算で作った映画みたいに出来の悪い死体だな。死体はもっとゆるんでるんだよ。表情なんかないんだよ。おまえ、ホンモノ見たことねーんだな。私はだれになんの悪口を言ってるのだろう。
母の首に包丁を突き刺したままにして、ふらふらと部屋に戻った。
疲れ果てて机のイスにぐったり腰かけたら、ピアノのイスにおばあちゃんが背を向けて座っているのが見えた。
おばあちゃんは、さっきよりひと回り小さくなり、背中を丸めてうずくまるような姿勢で座っていた。もう私のほうを見ていなかった。
私は「おばあちゃん、ありがとう」と言った。また涙があふれてきた。
すると、おばあちゃんはゆっくり立ち上がり、向こうの壁にすぅーっと吸い込まれていった。
それが、いろいろなことのおしまいだった。