私はどうにも落ち着きのない散漫なヤツで、結局「いまアタマにぶわーっと湧いていること」しか書けないから、発表会記事を中断してこの号外を入れておく。
発表会の大元は、一昨年4月ピアノを再開したことに端を発するわけで、それもまあ自分が好きこのんでどうしてもやりたくなったからはじめた。
今日もまた、好きこのんでなんか半日ほど大騒ぎしとりました。パートのことじゃなくて、う~ん、具体的に書けなくてすまんのう。べつに他人から見たらたいしたことないと思うけど、本人は地獄と天国のあいだを行ったり来たりみたいなありさまですねん。
とりあえず、だ。「事象A」が生じた。
事象Aは、それ以上でもそれ以下でもない。「そういう事実が生じた」と、ただそれだけのことである。
だのに、その事象Aを自分のフィルターにかけて、ああでもないこうでもないとコネくりまわして、結論として「これは自分の望んだことではない。したがって不幸な出来事だ」ってのが出ちまった。
でさあ、その「不幸」を受け入れられるかどうかっちゅーと、それがもうとうていできなくて、おかしい! 理不尽だ! こうであるべきだ!とか一斉に発令されちまって、あかんわあ、もうあたいの手には負えねえ、頼むわっ! 堀江さなえさん、助けてっ!
んで、さえさん(堀江さなえさん)に、FacebookメッセージでSOSを出してしまった。
さえさんには、去年12月26日に「ビリーフリセット&エンパワメント・セッション」をズームで受けた。そのおかげでかなりビリーフもリセットされたし、徐々に奥深くの感情にもアクセスできるようになり、その結果こないだは「インナーチャイルド」(自分の心に内在する傷ついた子ども)に「出会う」ことにもなった。
まあ、もうちょっと自分で向き合えるように耐性を持ったほうがいいのだが、うう、ついメッセージしちゃったねえ。ほんと、すぐに聴いて欲しくてねえ。あらら、頼りすぎてるねえ。
そもそもセッションで背景はぜーんぶご存じなので、「こんなことになりましたー」とお話するだけですぐさまわかっていただけるのがありがたくって。
さえさんはいくつかのことばのあとにこう質問された。「そのことが起こってどう感じたの?」
私「いやあ、とっさに思ったのは〇〇〇〇かなあって。それがもとでああなってこうなって、だからたぶん△△△みたいになって、きっと×××にちがいないんです」とかなんとか、うじゃうじゃ書いたんだけど、
さえさん「〇〇〇〇が、ビリーフ(思い込み、信じ込み)なんじゃろねえ」
でも、私はすぐにピンと来なかった。なので、引きつづき長々と状況説明とかやってたら、
さえさん「そこは、こんなふうに捉えられるんじゃない? 私にはそんな気がするんだよね」
あうっ! そうだ、それだ! ほんとはその通りだ。なるほど、だからこうなったと考えるほうがずっと自然だし妥当だ。
そしたら、そこがまさに突破口だったらしく、スルスルと紐解けてきた。自分でもいろいろ気づきが降ってきた。そもそも「自分の本心」を隠して行動していたため、外界に「ひずみ」が生じているとわかってきた。
その直後にパーンッ!とビリーフがはずれた。ほんと、〇〇〇〇ってビリーフだったわ……
さえさんは具体的に「こんなふうにやってみたらどうかな?」ということも提案してくださった。ああそうだなあ、客観的に考えたらそういうやりかたのほうがずっとよさそうだった。私、なにをコネくりまわして遠回りしてたんだろう?
さえさん「やっぱり、考えすぎるのは傷があるからなんだと思うのよね」といたわってくれる。
今日はFacebookメッセージだというのに、ああビリーフリセットまでしてもらった。すごい。
なんか一挙に憑き物が落ちたみたいになって、それから「事象A」を振りかえってみると、はは、「しあわせ」にしか見えねー。ほんま、クルッと裏返っちまって「しあわせ」なんだよね。その「しあわせ」を裏付ける記憶もよみがえってきた。なんだー、こんなにしあわせじゃーん!
で、メッセージのはじめのあたりを読み返してみたらギョッとした。だって事象Aはなんら変わりはないのに、ビリーフに取りつかれているとこんなに歪曲して「不幸」にしか感じられないんだ。
しかし、ほんとは、そう、しあわせなんだ。だって、この事象Aってべつに生死にかかわることじゃない。たまたまいまジタバタしてるけど、なんか余裕あって楽しくてジタバタしてる。好きこのんであれこれやってる。
ピアノもそう。発表会で失敗して大騒ぎなんだけど、それはね、やっぱり生き死によりだいぶん離れた次元で、それでもやりたいからやっていて楽しくわあわあ騒いでいる。命懸けに近接するのもあるけれども、もともと音楽は「生々しいものから離れたところ」にあるものだ。
などと考えていたらFacebookで、認定カウンセラー|内藤たみこさんのnote「音楽と記憶と感情」を読んで慄然としてしまった。「亡くなったひと」への思いを書かれていて、そこのところで涙が止まらなくなってしまった。
そのとき私が思い出したのは、叔母さんの「博子ちゃん」のことだった。私の母には「3人の母」がいた。生母ひとりと継母がふたり。博子ちゃんは、ひとりめの継母のはじめての赤ちゃんだった。
博子ちゃんは、昭和19年7月26日に生まれたらしい。父の記録ではそうなっている。でも亡くなったのはいつかわからない。兵庫県西宮市の大空襲のときに死んでしまったという。そんな時期はいまどきすぐにわかる。西宮は昭和20年5月から8月にかけて5回大空襲に見舞われている。母は小学6年生だった。
博子ちゃんは、この世にほんの1年ほどしかいることがかなわなかったのだ。でも、私はときどき思い出すんだよね。75年まえに亡くなったかわいそうな赤ちゃん。あのとき博子ちゃんが、私の母の身代わりになってくれたんじゃないか。
ふいにある思いが湧いてきた。
ああ、私ってもしかして博子ちゃんの人生も生きているのかなって。
ほんとは博子ちゃんが楽しみたかった音楽を聴いているのかな。
ほんとは博子ちゃんが出たかった発表会なのかな。
ほんとは博子ちゃんが体験したかった「事象A」なのかな。
ほんとは博子ちゃんが欲しかった「しあわせ」を味わっているのかな。
そんな気がしてきた。
じゃあだったら、よりいっそう私の人生を大切にしないとね。
私ひとりの人生ではない。
博子ちゃんの人生でもあるんだから。